五次元、そして六次元へ

2012年8月19日 01:03:12

五次元を、

例えば、点とか平面とか立体とか時間とか、そんな言葉にすることは

難しいが、それを観察し知覚し、感覚している。

劇場に入ればその次元が誰にでも明らかにされるはずだ、と思ってきた。

ラスコーリニコフは、最後の、次の、その一歩を踏み出した。
その敷居を己の足でまたぎ、高利貸しの婆に向けて斧を振り下ろした。
婆の頭を割ったのは、斧の峰だった。
ラスコーリニコフが握り締め振り下ろした斧の刃は、
ラスコーリニコフ自身を向いていた。
その景色こそが、ラスコーリニコフが踏み越した一歩の象徴であり、
具現だったのだ。
昔は、ドストエフスキーのそんな象徴描写を小手先の技術のように解釈してきたが、
今、ようやくその斧の刃の意味を理解した。今日の本番中だった。

舞台は進行している。
終盤にかかった時だ。頭に電気が走る、という感じだろうか。
目の奥に電流が流れ、目が見開かれ、意識のピントが外れ、声が漏れた。

(そうか)

ドストエフスキーは、ろくでなしじゃないか。
そりゃ、ラスコーリニコフを創造しなければならなかったんだ。
ラスコーリニコフの行動すべては、
必然や歴史の流れや出来事や象徴や言葉ではなく、
彼の一歩は全てドストエフスキーの五次元の観察故の行動だったのだ。

例えばこう言えば分かりやすいだろうか。
ぼくの時間と作品の時間を違う。
その時間の差を埋めるのは、ドストエフスキーのため息と不眠だ、と。