どこまで行けるのだろうか

2013年4月20日 22:09:47

作品を創るには、それなりにお金がかかる。
時間もかかるし、人もいる。人の能力もいるし、客観と主観の視点もいる。
創り手の頭の中には、理想とする作品像があるはずだ。
そのイデアに向かって誰もが作品に取り組む。

頭の中の理想をそのまま具現するのは難しいはずだ。
こうしたい、ああしたい、と思ってもそれを具現するには、
相応の装置や仕掛けや人的能力を必要とするものだ。
それを可能にする手っ取り早い方法は、どこからか無尽蔵の金を調達するしかない。

多くの創り手にとって、それはなかなか難儀なことだ。
もちろんぼくもだ。では、どうやってイデアに近づくのか。

ということを、見沢知廉三回忌公演の時から考えてきた。
イデアを引き摺り下したこともある。
具現を主観のみで固定したこともある。
いろいろな方法や手法でイデアを見続けてきた。

そして、この作品だ。
イデアは、もちろんこれまで以上にはっきりと現前している。
理想の画、というよりも、当たり前にある、ぼくたちの作品。
制作費・製作費・美術費・装置費など、潤沢にあるわけではない。

でも、なぜかイデアとの距離を感じない。
むしろ近すぎるくらいだ。近すぎて、道を踏み外しそうになる。

理想の画。
その画とともに作品がある。
無理をすることもなく、金をかけることもなく、体をはることもなく、
当たり前にイデアとともに作品がある。
その姿は理想的、とも言えるのかもしれない。

不思議な気分だ。作品が雄弁に時間を語る。こんな経験は初めてだ。
どうしてこうなっているのかわからない。
作品そのものがそれを望んでいるのか、
脚本がそう書かれているのか、
それとも、照準機関が照準する時間が、作品の時間にマッチしているのか。

なんにせよ、このまま進んでみる。
こんな経験は初めてだから計算も何もできやしない。
どこまでも進んでみるしかない。どこまで行けるのか。
押し続けるのは得意だ。突っ張り続けるのは得意だ。

退いてたまるか、と真夜中、声が聞こえる。