んー、脚本が間に合わんぞー
2013年7月26日 23:33:42
稽古に脚本がない!
という事態は、かつて経験がない
経験がないから間違っている、ダメ、ありえない、とは言い切れないだろう
と、そんな状況を妄想しながら、反論反証する
いやいや、脚本がないというのは、ゲンジツテキニよろしくないのだ
片仮名を使ってみているあたり、どうやら頭の中にまだまだ余裕がありそうだな
と、今の頭の中を分析してみたり、肯定してみたりする
だから、何度も言うように、画、は、あるのだ
まずは他の原稿をやっつけようと一つずつ書いている
前回の作品、『二十歳の原点』
二人の写真家に写真を撮っていただいた
お二人ともプロの写真家だ
平早勉さんと吉田豊一さん
それぞれ、活躍の場や得意とするモチーフは違うのだろう
残された何百枚もの写真が、彼ら二人を雄弁に語っている
なるほど、プロの仕事というものはそういうものなんだな
作品が語るのだ、とあらためて思う
そういえば、ぼくはかつて劇作家だったのだ
今も、あちこちその名残で紹介の時なんか「劇作家の高木さんです」
とか、
「はあ、まあ、そうです。脚本を書いたりします」
とか、
「むにゃむにゃ」と
いや、まあ、いいのだ、劇作家でもなんでも
勝手に「照準機関」と名乗ってはいるが、全然浸透もしないし、面白味もない
確かに、
「こちら、照準機関の高木さんです」と紹介されたら、
そのあとの事態が容易に想像できる
照準機関を説明するということの恥ずかしさ
だから、まあ、代表でも劇作家でも読書代行業者でも演出家でも配達人でも運転手でも
なんでもいいのだ
ただ、プロの仕事というのは、作品が語るんだな、と思う
代表というプロもいるだろう
劇作家というプロもいるだろう
読書代行業者のプロもいるだろう
演出家のプロも配達人のプロも運転手のプロも
と、ここまで書いて落としどころが見えたがあまりに気恥ずかしいので書かずに右折
いつか、空の場所を特定できるだろうか、中学生の時に立てた設問
今も作品を創ることによって論考を続けている
そして、Uターン
論考を続けているのだが、
脚本が全然書けんのだ
全く書けんのだ
一字も一行も書けんのだ