帰りたいのだ、きっと
2014年3月1日 23:11:52
ドストエフスキーが「一切はゆるされる」と書いたその一切とは何か。
太宰治が「一切は過ぎていきます」と書いたその一切とは何か。
親鸞が唱えた「一切はゆるされる」という観念の一切とは何か。
ぼくたちは赦されなければならないのかもしれない。
何かに。
ぼくは、演劇を創っているのではない。
演劇という言葉が嫌いだ。あまりに体制的だ。
ぼくは、そんなものを創っているのではない。
他の劇団や演劇を志している人がどうだかは知らない。
正確には、ぼく以外の全ての人がどうだかは知らない。
これまでの悪事を一つずつ数え上げる。
傷つけた日々を無理やり記憶の表層に上げてみる。
ドストエフスキーが「一切はゆるされる」と書いたその一切とは何か。
太宰治が「一切は過ぎていきます」と書いたその一切とは何か。
親鸞が唱えた「一切はゆるされる」という観念の一切とは何か。
一切。
マルメラードフの真似をして「人間には帰る場所がいるんだ」と顔に冷たい風を受ける。
ドストエフスキーの創作したマルメラードフの寂しさ。
帰る場所・・・どこだ、そこは・・・
帰りたい帰りたい帰りたい。
記憶以外何一つ形の残らないものを創り続けている。
自分自身にいくつもの戒律をつくりかたくなにそれを守り続けている。
こんなことをしていたらいずれぼくと一緒に作品を創ろうと言ってくれる人がいなくなるだろう。
それはそれで仕方のないこと。すでに想定済みだ。
あるいはその時になって初めて言葉が言葉としての本位を取り戻すのかもしれない。