脚本を書いている、こつこつと書いている

2014年8月2日 23:23:49

次の作品は、岸上大作を取り上げる

と、必ず内容が予告される

それは、演劇という形態に限らず、映画でもそうだ
映画はとくにそれが顕著だ
予告編を見るだけであらかた「見た感じ」がしてしまうほど、予告される

この一年、ずっと不思議に思い、同時に不満に感じていた予告ということ

しなきゃいけないのかな

しなくてもいいだろう

いついつ、どこで、高木尋士が、作品を発表します
念のため、鑑賞料金は3000円です

それだけの案内でいいんじゃないかと思い始めている
とはいえ、出演者やスタッフにしてみたら、
そんな案内やチラシじゃ、お客さんを呼びづらい!という声があがるかもしれない

それはそうかもしれない
その声があがるのは、ノルマというシステムがあるからだ
ノルマがなければ、そんな声があがるはずがない
さあ、そこが問題だ
一つの作品を創るということとその経済構造

そんな風に考えているとだんだん理想の発表形態がはっきりしてきた

最終的には、作品が鑑賞者を選ぶというシステムなのだが、
その前段階として、内容の予告のない作品発表システムはどうか
ぼくが、作品を発表する、ということだけで、
鑑賞者は、会場に足を運んでくれるだろうか

事実、どうだろう? 現在は?
演劇という形も、「タイトル」が必ず発表され、
出演者やスタッフが明記され、その内容さえ詳述されているものもある
お客さんは、その情報で取捨選択をしているのだろうか
してるんだろうな
それが当たり前なんだろう
でも、例えば、寺山修司が、今、内容に関して何の情報もなく、
いついつ発表します、ということだけがあったらどうだろう
きっと、興味をもったたくさんの人が会場に押し掛けるだろう
いや、決して、自分と寺山さんを比肩しているわけではない
極論として、の、話だ
極値においてそんな仮説が即座に成り立つと信じられるのならば、

その極値にメータを振ってみるのもいいんじゃないだろうか

と、思いつつ、
そして、こうして何か月も考え続けているということは、きっと
そのうち、そんなことをするんだろうな、と自分で面白がっている

と、そんなことを考えながら、こつこつと脚本を書いている
本当にこつこつと

これまでの書き方と明らかに違うアプローチ
毎日一行二行を楽しみながら書いている
言葉を探しながら、こつこつと

これまで書いたことのない文体がとても自然に溢れてくる
あれ? 俺、何か変わった? と自分でもそれが楽しい

タイトルも内容も出演者もスタッフも会場も日時も鑑賞者も
必ず、

作品に要請されるべきだ

ならば、その作品という現象に向き合える情報だけ充分なはずだ