見える画をただひたすら見える画を

2014年9月28日 00:02:42

そう言えば

これまでは、画が見えていても、時間の経過とともに、
どこかで

どこかで、ある種の打算があったり、ある種の計算が紛れ込んだり、

また或いは、ある種の妥協があったり、どこかで、どこかで、

そんなことが、あった

当然と言えばそれは当然のことだろう

そういった、妥協や打算や計算がなければ、実は何一つ成立しないのが、

「演劇」

というものの正体なのだ

総合芸術と言われる「演劇」は、総合的妥協、相対的計算、総体的打算の産物なのだ

だから、「演劇」が嫌いなのだ

見える画をただひたすら創り上げていきたいと、

今回はまともな脚本を用意しなかった

脚本があると、そこに必ず計算や妥協が入り込むのだ

10月の終わりごろに発表されるこの作品には、一切のそれらがない

経験的計算や作品的妥協や前進的打算が一切入りこまないこの作品は、

そこにもはや物語という概念さえなく、言葉という観念さえなく、

あるのは、ただ「存在」と「非在」なのだ

この作品に関して以前ここでも書いた通りに、俳優は、その「存在」と「非在」の狭間で

言葉の洗礼を受けることになる

見える画をひたすら積み重ねるこの作品はあなたを失望させるだろう