何歳ですか? これを読んでないとお話になりません! 『異邦人』
2014年10月15日 23:13:31
好きとか、嫌いじゃない。
読書の習慣があるとか、ないとかじゃない。
テレビもインターネットもゲームも楽しい。
ラインもフェイスブックも飲み会もしなきゃいけない。
そりゃそうだ。
この、今を、どうにか溺れないように泳ぎきるには、そうしたことも必要だ。
けれども、その海はどこにも陸地が存在しない。
いつまでも泳ぐしか、生ききる方法はないんだ。きっとそれはみんながわかっている。
本の海。泳ぐ。泳ぎながら、陸地なんか見えない。
テレビやインターネットの海と同じだ。見えない。泳ぐしかない。見えない。
けれども、決定的に違うことがある。
それは、テレビやインターネットの海には陸地が存在しないが、
本の海には、それが、今は、見えなくても、陸地は、確かに存在しているのだ。
好きとか、嫌いじゃないんだ。
忙しいとか、大変だとかの問題じゃないんだ。
読んでおかなければならない本というのがあるんだ。
読んでないじゃ、まったく、ほんとに、全然、お話にならないんだ。
『異邦人』カミュ
子どもたーちがー、ではない。
「太陽がまぶしかったから」の方だ。
中学生の頃、これを始めて読んだ。
なんだかよくわからなかった。
そのテーマ性もモチーフも、主人公ムルソーの言ってることもやってることも。
なんだかよくわからなかったけれども、とても印象に残った本だった。
中学生の頃、本棚には、「もう一回読む!」コーナーをつくっていた。
そのコーナーに、この「異邦人」も並んだ。
高校生の頃にも一度読んだ。短いし、文庫だし、手にしやすかったんじゃないかな。
そして、先輩たちの話の中に、カミュ、とか「異邦人」という単語が出てきて、
再読した、という記憶もある。定かではない。
読んだ。今から思えば、わかった、とはいえないけれども、
「俺、凄い! これ、わかっちゃった!」という気になった。
翌日、ラストシーンを友人に得意げに語った覚えもある。
その後、何度も読んだ。何度も、何度も。
十指に入ると思う一行目だ。「きょう、ママンが死んだ」
そういえば、恐るべき一行目をもつ小説ってのが、ぼくは、好きだ。
太宰、ドストエフスキーには、それが多い。
「きょう、ママンが死んだ」
素晴らしい一行目じゃないか。
そして、この一行の印象は、どこまでも読者を追い続け、追い越し、待ち受け、席巻する。
この印象から逃れることのできないまま、ラストまで連れて行かれるのだ。
その非接触的暴力。静かに、そして力強く、気が付けば、読者は、困惑の中で主人公ムルソーと対話する。
そのラスト。高校の時に読み、そのラストを分かった気がしたのだ。
もちろん、今の理解とは大きく違う、180度違うと言ってもいい。
17歳。ムルソーをかっこいいと、思った。まあ、そんな年頃だ。
母の死、その葬儀、感情を失ったかのようなムルソー
しかし、その翌日、出会った女と遊ぶ、女を抱く
ママンを失いながら普段の生活を送るが、ある日、些細なことで、アラブ人を射殺
逮捕、裁判
裁判で、殺人の動機を問われ、ムルソーは、「太陽が眩しかったから」と答えた
死刑宣告
ムルソーは、町中の人から憎まれ、罵声を浴びせられることに希望を見いだす
そんな物語。
カミュのこの「異邦人」と言えば、すぐに「不条理」って単語が使われるけれども、
読めば読むほど、不条理ってのがなんなのかわからなくなる。
そのわからなさ加減が不条理って気もしてくる。
ぼくは、この小説を不条理だとは、思わなかった。だからと言って、「条理」ではないだろう。
じゃあ、何だ、ってことなのだが、「運動」、あるいは「主義」、もしくは、「創造的破壊」
言葉はいくつでも並べられるが、確かにぼくは、彼に、ムルソーに自己投影した。
まあ、なんでもいいが、読んでないじゃ、お話にならないのですよ。