『アダム・スミス』【人類の知的遺産42】

2016年2月2日 21:00:24

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『国富論』が読み続けられる理由

前巻は、ディドロだった。18世紀フランスの知の巨人だ。今回は、同じ18世紀の偉人。イギリスを根本的に変えてしまった一人の男、アダム・スミスだ。ディドロが18世紀の知の巨人だとするなら、スミスは、18世紀の知の良心と言えるだろう。

18世紀、フランスのディドロとイギリスのアダム・スミス。彼らの影響が両国の運命を大きく変えている。教科書ではどう習っただろう? アダム・スミスと言えば、『国富論』。『国富論』は、経済書の古典でその後の世界に大きな影響を与えた、といった感じだろうか。実際、スミスは、近世経済学の始祖であり、『国富論』は、ほとんどの言語に翻訳され、世界中隅々に発信された。

それにしても今も読み続けられる一冊。経済学書というのは、スミス以前にもたくさんあった。そして、スミス以降もたくさんの経済学書が発表されている。それでも、やはりスミスなのだ。なぜだろうか?

一言、言えるとするなら、スミスは、経済という問題を一国の時局的な問題と捉えずに、経済というものが万国に共通する問題を孕んでいると喝破したからだろう。加えるなら、スミスが問題としたのは、「時代」であり、各国各時代には、それぞれ固有の時代的問題を抱えている。例えば、ある国のある時代では、宗教が問題とされ、また別のある国のある時代では、政治が問題とされ、また別のところでは、戦争だの争いが問題であり、そんな風に必ず各国各時代には、その時代を象徴する問題がある。それをスミスは、経済という視点から解決していったのだ。

では、現在の日本における問題はなんだろう? 大きな問題としては、外交ということがあるだろう。そしてその外交というディレクトリの中には、資源という問題や、政治が含まれ、資源というディレクトリには、エネルギというファイルを見つけることができるだろう。

18世紀、ヨーロッパ。いろんな問題が噴出していた。噴出しすぎて問題が塾し過ぎ、問題自体が腐敗していた感じだろう。フランスでは、百科全書のディドロが芸術や文化、知識、知性という側面からの警告がされていた。しかし、フランスにおけるアンシャン・レジームは、フランス経済の今後に対する危機感があまりにもなかった。その胎動は、フランス革命という政治の変革で表現された。一方同じころイギリスでは、スミスが『国富論』において、経済からの問題解決に意識が進んだ。その結果が、産業革命だ。同じ革命でも、大違い。近代化への足掛かりをつかんだのはイギリスだった。

今、『国富論』を日本人が読むことに意味があるかどうか。

ある、と言い切ることができる。なぜなら、先述したようにスミスの問題の捉え方は、必ず時代を見据えているからだ。

『国富論』を読んでみようよ!

『国富論』は、基本的に第五篇で構成されている。

第一篇では、「分業について」「価格について」「労働価値の思想」「分配と社会の発展」ということがテーマになっている。その中で、貧富の格差を一つの問題としている。貧富の格差と言えば今やどこの国でも大きな問題とされている事象だ。スミスは、分業の結果、社会の最下層まで富がゆきわたるとする。そうして主題に対しての分業の具体的分析を緻密に行っているのだ。

また商品の価格についても、市場価格と自然価格という二つに分けて労働との関係を説く。また、最低賃銀(金、ではなく、銀だ)についての言及もある。最低賃銀を発想したスミスは、それが一つの解決になりうるとも言う。最低賃銀の設定は、豊かな報酬へと繋がり、豊かな報酬は、勤勉を刺激する、と。

第二篇では、生産と消費のバランスと節約と浪費についての考察があり、第三篇では、ヨーロッパの資本経済が分析され、第四篇では、貿易と生産、植民地貿易、独占と寡占、という論点だ。スミスは、植民地経営はいずれ破たんをきたし、それは、悪徳を生むという。第五篇では、軍事費、司法費、公共土木費、教育費、宗教施設の経費、税金、公債といった政治的な経済に踏み込んでいる。

古典中の古典。誰が読んでも現在の自分や日本を見詰めなおすことだろう

もちろん、この本一冊で現在の複雑な世界の問題が解決するとは言えない。しかし、問題解決に向かうための根本的な思想は、200年経った今もとても有用だと思うのだ。