『ベンサム』【人類の知的遺産44】

2016年3月5日 23:20:28

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「最大多数の最大幸福」

18世紀から19世紀にかけておびただしい著作を世に問うたベンサム。

とにかく有名なのが、「最大多数の最大幸福」という一語。何という一語だろう。簡潔にして力強く、その含意を最短距離で伝え、意と語感がストレートに繋がっている。これに勝るスローガンはなかなかお目にはかかれない。とはいえ、この「最大多数の最大幸福」。どうもあまりいい雰囲気では語られない。諸外国ではどうだか知らないけれども、少なくとも日本では。功利的、或いは打算的。計算高いという感じもあるだろうか。確かに、ベンサムの思想は、「功利主義」とも呼ばれる。に、してもだ・・・。

法律オタク的ベンサムの活躍

(オタクという語の使用に特に含むところはない。現在一般的に使用されている程度の意味だ)

ベンサムは、言った。「法律は一つのユートピアである」と。そこには、絶望的な皮肉が含まれている。何十年も立法という仕事に携わり、独自の理論を展開し、生涯思考し続けたベンサムだったが、法律の改革は、ベンサムの生前には受け入れられなかった。そんな時の言葉だ。身につまされる。言ってみたいもんだ。「照準機関は一つのユートピアである」と。

それはさておき、法改革に生涯をささげたベンサムだが、「功利主義」「立法」「法典化」という幾つものキーワードが挙げられる。こう書くと冷徹な現実主義者のように感じられる。しかし、読んでみるとそうではないことがよくわかる。ベンサムがどれほど、人間の道徳を重んじていたか、が。

それにしても、案外羨ましい生涯だ。祖父母、父母の遺産で生涯お金に困ることはなかったようだ。一時期、弁護士として働いたこともあるようだが、あくまで「一時期」であり、まじめには働いていなかったらしい。金があるのに、なぜ働かなくてはならないのか! それ以上に私にはするべき仕事があるのだ! という人生が、ベンサム。

その生涯はその思想に顕れる

20歳のベンサムが自問する。

「私には何かの才能があるだろうか。私は何を作り出せるだろうか」

フランスの哲学者エルヴェシウスが、「地上のあらゆる職業のうちで最も重要なものは何か」と自問し、「立法である」と自答したことを踏まえ、ベンサムは、続けて問う。

「私に立法の才能があるだろうか」

そして、

私は、恐る恐る、そして震えながら自答した。―――「ある!」

いいねー! いやー、いいじゃないですか! ベンサムの生まれた18世紀イギリス。ベンサム自身が述べているが、「われわれの生きる時代は忙しい時代である」と。いつだって、みんなそう思うんだろう。ベンサムが、現在の社会を覗き見たらどう思うだろう。そして、彼が生きた時代は、革命に彩られていもいた。アメリカ革命、フランス革命、イギリスの産業革命。ベンサムは思ったことだろう。

世界を変えることができる! と。

高橋和巳の功利主義解釈

 「内に省みて恥じるところなければ、百万人といえども我ゆかん」と言う有名な言葉が孟子にあるけども、百万人が前に向かって歩き始めているときにも、なおたった一人の者が顔を覆って泣くという状態もまた起こりうる。
最大多数の最大幸福を意志する政治は当然そうした脱落者を見捨てていく。(中略)文学者は百万人の前の隊列の後尾に、何の理由あってかうずくまって泣く者のためにもあえてたち止まるものなのである。

有名な言葉だ。高橋和巳は政治に対して、こんな怒りにも似た激しい感情を抱えていた。だから、学生運動にも協力的であり、その文学にも普遍的なメッセージが込められることになったのだろう。

ベンサムの改革

ベンサムは、自信に満ち、法の改革を提案していく。もちろんその根底には、人々の道徳改革があるのだ。ベンサムが主張した功利主義は、「快楽や幸福をもたらす行為が善である」とする。正しい政策というのは「最大多数の最大幸福」をもたらすと主張する。

それは、個人の幸福の総量が、その社会全体の幸福であり、その社会全体の幸福を最大化することだ。わかりやすい、と言えばわかりやすい。でも、個人の幸福度合をどうやって計算するんだ? という疑問にもベンサムは答えている。「幸福計算」という方法を提唱しているのだ。いやー、面白いじゃないか、ベンサム!

その詳細はさておき、ベンサムは、いろんな独自の言葉を作っている。例えば、今では誰もが使っているinternational。これはベンサムが作った単語だ。他にmaximize、minimizeもベンサム。ぴったりくる単語がなかったんだろうな、と思う。それにしても、生涯生活の苦労がなく、読書と思索と執筆に毎日を費やすことができたなんて、ほんとうに羨ましい。