『ヘーゲル』【人類の知的遺産46】

2016年3月10日 06:01:31

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ヘーゲル、好きですよ

初めてのヘーゲルは、いつだったんだろう。多分、高校一年のときだ。哲学、という言葉に興味を持ち、埴谷雄高やソクラテスに手を出した頃だ。とはいえ、理解できるわけもない。その頃は、ただ、言いたかっただけだ。会話の中で、「ヘーゲルは、云々」って。そんな事をいうときに、ソクラテスよりもヘーゲルの方がカッコいいと思ってたんだよな。嫌な高校生だな、と今思うも、本気でやってたんだから、これはもうなんというか。その頃、好んで引用したのが、「ミネルヴァの梟は夕暮れに飛び立つ」という有名な一文と、「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」だ。わけもわからずにこんなことを言っていた、高校一年生だった。

とにかく、ヘーゲルって、なんかカッコいいとずっと思ってきた。なんというか、孤高な感じとか、ストイックな感じとか、だろうか。

ヘーゲルに似ている、と言われたい

昔から、ヘーゲル批判、と言うのがある。

ヘーゲルは、「持って回った言い方をし、難解な言葉を使い、なんというかあたかも深く意味ありげに語っているようにふるまっている」とか、「社会正義を最優先にし、個人の自由を無視している」とか、「神や運命という摂理を歴史の中で分析し、個人をその〈あやつり人形〉のように見なしている」とか、だ。

そんな批判があることを知った時、思ったのだ!

えっ? なんか似てない? ヘーゲル! 俺もそう思ってたんだよ!

傲慢にも程がある。若かったのだから仕方ない。そんな感覚は、太宰にも公房にもソクラテスにも感じてきた。今思うと、何様だ、ってところだが、当時は真剣に思っていた。困ったもんだ。

だからぼくは、ヘーゲルに惹かれてきたのだろうか?

そうかもしれない。なんにせよ、ヘーゲルには言語上にも考え方においても豊かな影響を受けてきた。その最たるものは、やっぱり弁証法。何かを考えたり、決断する時には必ず意識的に弁証法という形をとる。

そして、作品を創る上でもヘーゲルが顔を覗かせる

例えば、作品とは何かをヘーゲル流に言うならば、こうなる。

「作品」とは、真理の芸術的或いは個人的認識を目指す厳しい「努力」に他ならないのだ。