『ベルクソン』『デューイ』【人類の知的遺産59・60】

2016年8月16日 20:34:30

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知的分別を脱却すること

ベルクソンは、そう簡単に言うが、だ、そんなことができる人間なんてそうはいないんじゃないか。知的分別を脱却しさえすれば容易に芸術的直観が得られる、というのだ。そりゃ、理屈は確かにそうだろう。それは、わかる。わかるが、だ。

「芸術の目的は何であるか。もしも我々が事物ならびに我々が自身との直接の交渉にはいることができたならば、芸術は無用の長物になるか、或いはむしろ我々がみんな芸術家になるかすることと私は考える。なぜかというに、かかる際には、我々の魂はたえず自然と一つになって振動するであろうから」

つまり、描こうとする、創ろうする対象との直接の交渉に入ること、それと一つになって振動すること、これが芸術的直観である、とするのだ。

この定義は、確かに正しいと思うし、論理的であり、多くの事象に対して非常に有効だと思う。だが、しかし、描こうとする、創ろうとする対象が、自己自身である時、それと直接交渉するのは、自己自身以外に誰であるのか。多くの芸術家は、自己自身を対象としているのではないか。

もちろん、ベルクソンはそんなことは重々承知の助でこれを書いていることはわかっている。

 

 

 

久しぶりに若々しい論点を読んだ、という感想。

もちろん、ぼく自身、上の問いに対する解は、もう何年も前に得ている。