高木ごっこ・・・509-97『名前がある』
2008年11月14日 21:07:51
友人と食事をした。無理やりご馳走になった。
楽しい2時間を食事した。
彼の今の仕事を聞いた。メロンソーダを飲みながら、ふと、
自然に彼の名前を呼んでいることに気が付いた。
稽古中、劇団員を呼ぶことがある。
それは、ダメ出しの対象であったり、自分の個人的な用事であったり、
無意味という意味だったりで、
彼らの名前を呼ぶことがある。
そのとき、劇団員固有の名前であったり、
時には、今回の芝居のために配役された役名であったり。
そのどちらで呼ぼう、と決めているわけではない。
自然に呼べるようで呼んでいる気がする。
劇団員には、そうか、二つの名前があるのか。
夕方、友人と駅前で待ち合わせをした。
時間があったので書店に入った。
手にした演劇雑誌のコンクール報告記事に自分の名前があった。
ほら、ここにも名前が。
一緒に暮らしているふくろうさんには、コトバという名前がある。
こやつがまだ卵の中にいるときに、ぼくが命名した。
17歳のとき、寺山さんの本を読んで、
もし将来自分に子供ができたならば、それが男でも女でも、コトバと名付けようと思った。
その名前は、ふくろうさんが我が物顔に独占している。
昨夜、眠れぬまま布団の中で携帯のアドレス帳を見ていた。
それは、12月の芝居へのお誘いをするため。
居並ぶ名前名前名前名前。
どんどんスクロールする名前群。それを見ているだけで、いろいろ挫けた。
帰宅するとポストに大判の封筒。
中には、年末恒例のある演劇の催しのチラシ。
そこに自分の名前があった。
名前、名前、名前。
そうだ、十数年前、名前の不確かさを証明しようと試みたことがあった。
小説という形式を借りて、名前の不在証明をテーマに一本書いたんだ。
タイトルは、『東京練馬区偽文庫』
あの原稿はどこへいったのか。確か、戯曲にもしたはずではなかったか。
空襲で焼け死んでいくのは、人間ではなく『名前』
飢餓で死んでいくのは、人間ではなく『名前』
その名前が連綿と収め続けられていく「つゆくさ」という名前の塔。
その塔の下には、「偽文庫」という書架が地平線まで続いている。
その文庫に収められているのは、文学という文学。
しかし、作者名は、全て消えている。
作者が生きている間は、それらの本に名前が刻まれているが、
作者が死ぬと、本から『名前』消えていく。
その文庫に収められているのは、
誰が書いたか分からない純粋な文学たち。
そんな小説と脚本を書いた覚えがある。
あの原稿はどこにいったのか。
名前があることの不思議にぐるぐるだ。
誰かの名前を呼ぶことができることのなんという幸せ。
名前を呼ぶだけで心が充たされる不思議。
なんだかんだとがたがた言うよりも先に、そのことを考えつくすべきではないか。
名前を呼ぶ
その時の心の在り様こそが
例えば生活であり、
例えば愛や恋であり、
例えば演劇であり、
例えば芸術であり、
例えば夜寝て朝起きることであり、
名前を呼ぶことができる。
その幸福を考えつくすべきではないか。
『東京練馬区偽文庫』
どこにいったかわからない原稿。
複素平面と(あるいは永久回転を続けるijk)組み合わせれば、
上演に値するかもしれない。
ポップでキッチュでキュートな青春物語になるだろう。
名前名前名前。
名前を考え、その果てしなさに苦笑。