昭和の日に、雑記
2009年4月29日 23:05:44
先日、見沢知廉さんの墓参りに。
晴れに晴れて本駒込。
行路地下鉄。その車内で、
「これなら書ける」と、ある手法に思い至る。
『天皇ごっこ〜調律の帝国〜』だ。
イメージははっきりしている。それを正確に書くための方法を考えていた。
もう1ヶ月も考えていた。
危うく安きに流れるところだった。
こんな感じでいいかな、と安易に書き始めるところだった。
今日は、昭和の日。コトバの誕生日。3歳。
おはよう、コトバ。
誕生日だね、おめでとう。
ひっくり返り、本を読む。
これなら書ける、そう思った、先日、好天。
だが、その方法で書くためには、資料がいる。
そりゃいる。いつだっているものだ。
書けるかな。
そう思いながらその高さにうきうきとしているのも確か。
そんなやり方で誰かが納得してくれるかな。
誰か一人でいい。
本当のほんとうの真の読者になってくれるだろうか。
先日、劇作家の伊藤正福さんから
『詞篇・レプリカ少女譚』の劇・書評をいただいた。
前回の作品のときにも頂いたのだけれども、
伊藤さんの書かれるそれは、
劇評・書評の枠を超えて、それ自体が一つの作品になっている。
「花粉症からカムバック」した、とメールにあった。
会場で劇団員と楽しそうに話されていた姿を思い出す。
チェホフの一節とともに、
何百kmも離れた場所から、伊藤さんの言葉が届いた。
見沢さんのお墓の前で、そういえばずいぶん長く話したな。
劇団員磯崎いなほも先日、墓前で、
たくさんの話をしてきたみたいだ。
好天。
お墓を磨き上げた。磨き上げたお墓の前にあぐらを組み、
思いついた脚本の話をした。
見沢さん、こんなんだけど、どうかな。
ぎしぎしとあちこちから音のする油の切れた体を引き摺る昭和の日か。
ひっくり返り本を読む。3冊も読む。
見沢さんの墓前に座り込み本を読んだ。
読み終えると、お線香は燃え尽き、卒塔婆がかたかたと笑った。
伊藤さんは、その評の中で言う。
〜前略〜
「絵筆を持つ手を描く手の絵」のごとき
自己言及的メビウスの輪的演劇論でもあるのだ。
〜中略〜
これまでの作劇同様、
思想的テーマへの、
そして新しい演劇言語への実験的でjazzyな接近の試み。
これを解さないではロフトの客とはいえない。
しかし
類のないこの企みのキーも
やはりコトバだ。
〜中略〜
「雪」へのこだわりは
「革命は愛の満足を求めて起こる」
とした北一輝の思想が時を得た、二・ニ六事件ともつながるかと。
「13人」「16人」
生贄となった数へのこだわりも同様。
〜後略〜
見沢さん、こんなとこに辿りつきました。
今、見沢さんの晩年が痛いほどわかる気がしています。
見沢さんの晩年がわかる、気がしています。昭和の日。
コトバの誕生日。