劇作家・伊藤正福さんから劇評
2009年5月2日 22:07:29
劇団再生の芝居にいつも足を運んでくださる伊藤さん。
毎回、一番遠くからのご来場かもしれない。
今度お客さんに聞いてみよう。
「今日、一番遠くから来られた方はどなたでしょう?」と。
そんな質問をされていた方を知っている。
昭和精吾さんだ。
一人舞台に立ち、マイクを握り、
「えー、昭和精吾です」と始まり、上の質問をお客さんにされていた。
そして、一番遠くから来られた方には、プレゼントを差し上げていた。
ぼくは、それを音響ブースから見ていた。
劇団再生のお客さんで一番遠くから来られているのは、多分伊藤さんだ。
何百キロの遠くから、劇評が届いた。
「詞編 レプリカ少女譚」 観て読んで感じたこと思いつくままに
眼球移植に手を染める狂気の天才医師の、ある愛のモノガタリ。
閉鎖された病院の地下には生贄となった子供たちの死体が!
とくれば
記憶の古層から連想のポップが立つ。
「桜の木の下には死体がいっぱい埋まっている」
これは、60/70年代アングラ演劇へのオマージュか。
とはいっても時代の感性が違う。
フロイト的無意識の迷宮やユング的アーキタイプの豊穣な祝祭劇を期待するとしたら野暮というもの。
(そんなことではアバンギャルドが泣くよね)
21世紀00年代の新しい病棟の新しい住人にはレプリカがいかにふさわしいことか。
あのコスチューム、あのメイク、あの発声と表情、
文学的記憶の、断片化された「引用」たちのコラージュ。
ときに場面とミスマッチかと思わせる、あるいは戦略的な?際立つ音楽・・・
( 木ワールドは、やはりこうでなければ)
タイトルそのままにこれはフェイクでキッチュな
「絵筆を持つ手を描く手の絵」のごとき自己言及的メビウスの輪的演劇論でもあるのだ。
これまでの作劇同様、思想的テーマへの、そして新しい演劇言語への実験的でjazzyな接近の試み。
これを解さないではロフトの客とはいえない。
しかし
類のないこの企みのキーもやはりコトバだ。
Paint it black!
と、ペンキ滴る大きな字で大学の塀に書きなぐられていたのを思い出す。
(今みたいに強迫的な潔癖症の時代ではなかったからか、それはいつまでも消されずにあった)
ローリング・ストーンズにそんなヒット曲があったな。
当時は、それぐらいしか思わなかった。
ところが
亀山郁夫新訳「カラマーゾフの兄弟」の解説によると、
チュルク語で「カラ」は「黒」、「マゾフ」は「塗る」という意味で
文字通り訳せば「カラマーゾフ」は「黒く塗る人」になるという。
Paint it black! 「黒く塗れ!」
ならばあれは
父殺しがテーマの「カラマーゾフ」を暗示し、
「父の世代を倒せ!」という革命へのメッセージであったのか!
と、四十年近く経った今にして・・・
やはりコトバだ。
今回の「少女譚」。
戦前、戦中、戦後にわたる昭和という時代、そして平成の現在を貫く日本近代の
欲望のありようをシンボライズする寓話として読むことも可能だろう。
「雪」へのこだわりは「革命は愛の満足を求めて起こる」
とした北一輝の思想が時を得た、二・ニ六事件ともつながるかと。
「13人」「16人」 生贄となった数へのこだわりも同様。
蛇足ながら
素朴な疑問として
芝居の終わりに幕を引く必要があったかどうか気になった。
舞台は幻影のように闇に溶けていく。そのほうが余韻を味わえたかと。
それから
「人は、愛する者の死をどこか、どこか、心の奥のどこかで望んでいる」
このような濃いセリフがもっと聞けたらと。
これは、いかにも旧人類的な好みであることを承知で。