真夜中疲労の果てにヘッドホンをし、悲しみを聴く
2009年7月31日 00:23:00
稽古場。今日も稽古場。劇団再生の稽古場。
疲労に鞭打って稽古場に入る。体がわーと悲鳴を上げたのを無視し、
今日も稽古場。
ラストシーンだ。
演劇に不可能な表現はない。
なんといっても人間の肉体が、彼らの命が、そこにあるのだから、
不可能があるはずがない。
ここ最近、映画の撮影現場に顔を出し、
撮影隊の好意に甘え、うろちょろと見学していた。
映画特有の表現方法がある。
完全な記録という作品のために、命を費やす表現。
監督は、全く同じことを言う。
演劇独特の表現があるんですね、と。
演劇は、映画を呑み込もうとしている。
記録、ということ一つをとってみても、そうだ。
演劇は記録されないから価値があると言われてきた。
記録されない「生」だからこそ、命の燃焼が感動を生むと。
馬鹿げた定義だ。
演劇の記録性を、はなから諦めた演劇人たちの逃げ口上だ。
記録されないから、と言いさえすれば演劇人万人が、
そうだ、と口をそろえる。
そんな時代が何十年も続いた。
ぼくの知らないもっと前からかもしれない。
何百年もそうだったのかもしれない。
確かに、記録されないが故の価値の一面はあるだろう。
ぼくは、そこに逃げをうつ気はさらさらない。
演劇には、底知れぬ記録性がある。
それに気付かなかった、
或いは、気付いたけれども挑戦しなかった先人演劇人を
後ろに見る。
なんだ、あんたらは、そんなところで止まってたのか。
そりゃ、演劇も死んでしまう。
あんたらがそこで満足し、
その場所で有象無象をこねくり回している間に、
演劇のほうが愛想を尽かしたんだ。
それにも気付かないのか。笑止。
演劇は、映画以上の記録性をもち、
その記録性こそが、演劇を再生し、演劇を拡張する。
稽古場から帰宅し、
森田童子を一人、聴く。
歌うべきものがない、と歌った彼女の悲しみを聴く。