例えば、8月23日は、故見沢知廉の誕生日であったり
2009年8月30日 19:01:17
どうして「見沢知廉」に惹かれるのか、と
先日のトークライブで鈴木邦男さん、大浦信行監督と話をした。
三者三様だったけれども、共通する一点は、あった。
「見沢知廉には、隙がある」
その隙間にぼくたちが、入り込める余地があるんだ。
そんな一点で三者は納得した。
確かにそうだ。見沢知廉には、隙がある。
その文学においても、その人生においても、その46年においても、その死においても、
隙がある。
その隙間を、「解釈」しようというのではない。
その隙間こそ、残された生者が呼吸をする場所なんだ。
「死者」と「生者」のこの二つしかない「者」を考え続けていた数年だった。
人間は、生きているか、死んでいるか、のどちらかしかない。
その事実を考え続けていた。形而下で考え、形而上に言葉を探した。
2年かけて居続けたこの形而上にようやく見えてきたのは、
ぼくたちの空だった。
空、としか、言いようがない、空だった。
言葉に呼吸をし続けた2年間だった。致死量を超える言葉をこの肺に溜め込んだこともある。
言葉に窒息し続けた2年間だった。
言葉の空だ。死んでもいい、と思った。
ぼくは、この言葉の空に窒息する。
見沢さんは、言葉の空に、飛んだ。
劇団再生は、言葉の空を創り上げる。
8月23日、見沢さんの誕生日だ。
阿佐ヶ谷の地下、ロフトで見沢さんの50歳の誕生日を祝った。
死者見沢知廉の誕生日だ。お母さんが蝋燭を吹き消し、
見沢さんが好きだったという苺ののっかったケーキをみんなで食べた。
ぼくには、見沢さんが、見える。
見えているものを解釈しようとしたことはない。ただ、見えていただけだ。
見沢さんと交流のあった方々にしてみれば、見当はずれもいいところかもしれない。
けれども、真の見沢知廉をぼくは、見ていた。今も見ている。
なぜ、それが、「真の」と言い切れるか。
それは、それが、ここに在るから、としか言いようがない。
言いようがないけれども、一つの証明はできるだろう。
それは、次の舞台だ。
見沢知廉作品ではないけれども、それとこれとは別問題。
ぼくは、その言葉の空に窒息する。