雨の匂いに本を読む。雨の音に脚本を読む
2009年10月26日 16:42:14
劇団再生の稽古場では、言葉は粛々と言葉を言葉としている。
先日の稽古であらためてそう思った。
言葉が言葉の機能をきちんと果たし、
言葉が言葉以上になることも、言葉以下なることもなく、粛々と言葉をし続ける稽古場。
そんな劇団再生の稽古場では、
ぼくたちがぼくたち以上のぼくたちになる。
脚本を出演者・スタッフに送った。
もう何度も読んだ劇団員がいるだろう。まだ読んでいない劇団員もいるだろう。
明日から稽古が始まる。雨だ。
空の方から雨が落ちてくる。という見え方或は考え方は、悪しき刷り込みかもしれない、と
よく思う。
雨は、とても高い確率で「あっち」からやってくるけれども、
実は、いろんなところからやってきているのかもしれない。
それを、ぼくたちが見逃しているだけかもしれない。
という、とても楽しい思考実験にはいろうとしたけれども、
あまりにも楽しそうで、こんな体調でそれをするのはもったいない。
もっと雨に快楽を感じられる日に、官能を感じられる場所で、考えよう。
楽しみが増えた。
さて、読むか。脚本を読もう。誰よりも読もう。一番読もう。
1ページでも多く。1回でも多く、脚本を読もう。
自分で書いた脚本だけれども、誰よりも読まなければならないのは、ぼくだ。
劇団再生でその枷を外したことは一度もない。
誰よりも脚本を読まなければならない。一字でも一行でもたくさん読まなければならない。
ずっとそうしてきた。そして、こうして脚本を開く。
『空の起源〜天皇ごっこ〜』という一編の脚本。
こうして読んでみるといろんなことを感じる。
好ましいところもある。
嫌悪するところもある。
唾棄すべきところも、愛くるしいところも、ある。
てころころして、転がしたくなるところも、
とんがったその先っぽを叩き壊したいところも、ある。
なるほど、と。脚本を読む。
雨の匂いに、雨の味に、
劇団再生の意義を思った。劇団再生の行く末を思った。
断崖絶壁、30cm四方、踏み出せば奈落、命はない。そんな場所。
そこに立ち続ける姿が、一つの律を構成していく。
座りたいけど座れない。眠りたいけど眠れない。話したいけど誰も居ない。
死んだほうがましだ。そんな場所。孤独な演劇という彼。
ドストエフスキーが「一切はゆるされる」と書いたその一切とは何か。
太宰治が「一切は過ぎていきます」と書いたその一切とは何か。
親鸞が唱えた「一切はゆるされる」という観念の一切とは何か。
劇団再生は演劇を止揚する。同時に、
ぼくたちは、劇団再生的弁証法を持って、ぼくたち自身を止揚する。
劇団再生は止揚し続ける演劇律のさなかにいる。
ぼくが書いた『空の起源〜天皇ごっこ〜』は、劇団再生的弁証法だ。
取り巻く一切を止揚し続けるという使命こそが、演劇の本義かもしれない。
当たり前のように稽古が続き、休まず続けられ、積み重なり、
逃げもせず、構えもせず、淡々と稽古は稽古として正常にあり、劇団員は、
稽古場に集まり、稽古をする。
明日から別日程で、『空の起源〜天皇ごっこ〜』の稽古が始まる。
可能な限り全てを話そうと思う。許される限り全てを伝えたいと思う。
今のうちに全てを話そう。劇団員に全てを話そう。そう思う。
同時に正しく話そうと思う。
ぼくが、抗議の高さを知ったのは、劇団再生でだ。
言葉にならず、あがき続けてきた想念の数々が一つずつ言葉になったのは、
劇団再生の休まず積み重なる稽古場でだ。
雨の匂いに脚本を読む。雨の音に誘われる。