毎日毎日、考えることは同じだ。考えていることは一つだ。

2010年1月5日 22:53:33

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脚本を書いている。
原稿用紙に一行も書くことができなくても脚本を書いている。
次の画を言語化するための取っ掛かりの一言が見つからないまま数日を過ごしながらも、
それでも毎日脚本を書いている。

そんな変わらない毎日の中であらためて思う。
もう、誰とも口をききたくない、と。
そんなことを感じ始めたのは、
「スーザンナ・マルガレータ・ブラント」という作品を書いている時だった。
はっきりと覚えている。
ラストシーンの前まで書きながら、ラストシーンをはっきりと見定めていたにも関わらず、
ある日、ラストシーンが全く書けなくなった。
なぜ書けなくなったのかも覚えている。

そう、あの頃からだ。
いろいろな人と会話を交わすことの苦痛が、表象にあがってきた。
おしゃべりだと言われてきた。小さい頃からそう言われてきた。
自分でも自覚していた。

上京して、何故、自分がしゃべるのかを考えた。
答えは、はっきりと出た。それを自覚しながらもぺらぺらをしゃべってきた。

もう、誰とも口をききたくない。
言葉はいらない。ただ、通じたい。

見沢さんのお墓を、宮永歩実、あべあゆみ、田中惠子ときれいにした。
小さな小さなブラシなんかを使って、細かい汚れをごしごし。

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会話をしたい。でも、もうしゃべりたくはない。
世界で最初の言葉を見つけてしまった今、言葉は、言葉だ。
あれほど夢見た言葉の千年王国に行き遊んでしまった今、言葉は、言葉だ。
言葉が垂れ流される苛立ちと怒り。「スーザンナ」を書いているときに感じた苛立ちを、
今もこうして抱えて、あのときに感じた感覚をこうして言語化することができ、
それほど、この感覚は冷静で客観的で具体的にある。

ただ、イラついている。

いいだろう。腹をくくって世界を切断していけばいいんだ。
何もかも、もう一度捨ててしまえばいいんだ。
何もかもを。何もかもを。
そうすれば、こんな苛立ちもおさまる。分かっている。そんなことは。

会話とは、何か。
そこに、言葉は必要か。

見沢さんのお墓は、ぴかぴかと、その答えを答えた。

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脚本を書いている。
本を読んでいる。

それだけでいい。

劇団再生の稽古はじめは、マラソン。
劇団員が公園を走った。ぼくも少し走った。走ったあと、みんなで新年会。

脚本を書いている。
本を読んでいる。

もう、それだけでいい。