寂しさがその刃を曇らせることはない
2010年10月23日 22:13:43
「演劇」という言葉。「芝居」という単語。「舞台」という大局的。
その何もかもに苛立ちを覚える。
どうして「演劇」という言葉があるのか。
どうして「演劇」という名を与えられたのか。
一体誰が名付けたのか。
さよなら、演劇。
名付けえぬものを無理矢理名付けたことの罰は、いずれ受けねばならない。
名付けた者の罪だ。
そして、「演劇」という言葉を無思考に使う者もまた同罪。
そうだ。ぼくも、その罰は受けねばならないだろう。
今、ぼくにとって「演劇」という言葉はただの対外的なサービスだ。
忸怩たる思いを胸にそれを使う。
罰を受ける日を恐れながら、その言葉を使っている。
さよなら、演劇、と呟いたら、不意にひげを剃ろうかと思った。
思ったけれども、相応しい形而上が見つからない。
演劇、か。
演劇という言葉の発明が、或いは名付けが、『演劇』を殺した。
死して今も、ここに横たわる。
そも、
名付けえないからこその価値があったはずではないか。
名付けえないことこそが、そもそもであり、
演劇の本旨であり、価値であり、力であり、賭けるに値するものではないのか。
素人め! 演劇の嘆きが聞こえないか。演劇の絶望を感じないか。
それがわからないのなら、やめてしまえ。さよなら、演劇、ともう一度呟いた。
狂え! 演劇破滅派。
狂わねば、人は斬れない。
狂わねば、言葉は斬れない。
狂わねば、お前を斬れない。
狂え! この手の一振り。
優しさは、その刃を鈍らせはしない。寂しさがその刃を曇らせることはない。
強さがその刃を研ぎすますわけではない。
狂え、狂わねば、演劇は斬れない。
真の演劇は死してここに横たわり、ぼくは、演劇を腑分けする。
そこに、
行きたいと思うのならば、狂え!
狂うなら連れてってやる。声が聞こえるか。言葉が聞こえるか。狂え! ならば連れてってやる。
ひげを剃ろうと思った。
思ったけど、ひげを剃るための形而上が見当たらなかった。
ひげを剃らなかった。
ひげを剃ることと爪を切ることは、形而上でしかできない。
演劇を志す者は、分かり易さや観客の要求にこたえて、真実や真理を犠牲にすることはない。
演劇を志す者は、失うことを恐れない。
どこまでも自分の画を信じ、演劇と対峙する。
どこまでも自分の真理を信じ、難解になろうとする。
自分の画とその真理。
難解にならざるを得ない。それはそうだ。
個人の真理をたかだか言葉で、たかだか肉体で一般化しようとするんだ。
簡単にできるはずがない。
演劇を志す者は、その一点において、わかりやすさを追うことはない。
演劇を志す者は、観客を失うことに感傷はない。失うことが逆説的な正当性の証明だからだ。
100万人の観客よりも、一人の真の理解者がほしい、と叫ぶ、夢を、また見た。
理解者?
なんだそれは?
薬のせいか、呆けた頭で反証する。
理解者なんか、誰にだって居るはずがない。
真の意味においてのそれは、常に己を否定することにおいてしか存在しない。
己の否定において自己を自己たらしめるというヘーゲル的な立場に立てば、
或いは、理解者という概念もそんな一人も居るのかもしれない。
けれども、
なるほど、自己の否定においてか。
なんだ、条件付きじゃないか。
ぼくは、条件が嫌いだ。
世間は、条件が好きだ。
何もかもが条件付じゃないか。
気持ち悪い。条件を付ければうまくいくと思ってやがる。口をききたくもない。
さよなら、演劇。
と、呟きながら、ぼくは演劇を分解する作業を続ける。
なんだかんだとがたがた言いながら、こんな高い場所でライフルを構えている。
行くときは、一人で行く。
足並みを揃えて、なんて、どだい無理な話だ。
言葉を尽くしながら、この高い木の上から蟻のような群衆を見ている。
撃つに、値する奴はいないか。
撃つべき価値を背負った奴はいないか。
ヴィクトリカの嘆きと寂しさ。
それは、一発のライフル弾。撃ちこまれ、血しぶきを上げる瞬間の幸福を思う。
ライフルじゃ、自分の頭を撃ち抜くことは難しいか。
まだ語らねばならないか。