いつか、ぼくは、
2010年10月25日 21:45:48
芸術が人間以上になることは、絶対にない。
芸術が人間以外になることは、絶対にない。
人間以上でも人間以下でも、人間以外でも人間以内でもなく、
そこにいるのは、ただ一個の人間だ。
その人間の創る演劇で、世界は、変わる。
たった一言で、たった一行で、世界は変わるんだ。
「きみは悲しみの青い空を一人で飛べるか」
世界は変わる。
たった一言で、たった一行で。
小説や、脚本が、芸術と呼ばれなかった時代が長かった。
なぜか。それは、それらの記法が言葉というデジタル表記だったからだ。
言葉が今もなおデジタル性を保有し続けるが故に、
芸術から疎外されてきた。
対照に画は、まさにアナログを象徴する。
言葉という記号に変換されるものは、歴史上確かに芸術から一歩下がってきた。
目に見えている画。
それはデジタルでは表現できない。
でも、
言葉というデジタル記号に変換せねばならない。
誰もかれもが、その変換を行う。
強力な変換エンジンを搭載している個人もいるだろう。
安っぽいエンジンしか積んでいない個人もいるだろう。
ただ、人は誰も、何千年もそんなことを繰り返している。
「きみは悲しみの青い空を一人で飛べるか」
この変換に使う思考こそが、世界を変えるという原動力だ。
ぼくたちの演劇は、アナログとデジタルの世界を往復しながら、一つの世界をつくる。
その往復するということこそが、世界を変えるんだ。
意識せねばならない。
森田童子が小さく叫ぶ。
「悲しい時は ほほよせて
淋しい時は 胸を合わせて
ただふたりは 夜のふちへ
ふるえて旅立つのでした
そんな淋しい ふたりの始まりでした」
いつか、ぼくはその変換をすることを拒絶するだろう。
それは、演劇を創るということを根底から変える所業だ。
なぜなら、そこには言葉が介在しない。
いつか、ぼくは脚本を書きながら、脚本を書かないだろう。
いつか、ぼくは原稿用紙を埋めながら、真っ白な原稿用紙を提出するだろう。
いつか、ぼくは稽古場で能弁に語りながら、ただの一言も発しないだろう。
いつか、ぼくは全ての変換を排除し、
この裸の街に、素っ裸で対峙するだろう。
その時になって、ようやく歌が詠える。ようやく、一言が言える。
ようやく本当のことが言える。ようやく、眠れる。
ぼくの一首は、遺書だ。
「きみは悲しみの青い空を一人で飛べるか」
ただ、変換された言葉をもってしても、世界は変わる。
その程度の力でも世界は、変わる。
こんなに青い空だ。