帰りたい、帰りたい、帰りたい
2010年10月27日 22:50:43
ドストエフスキーが「一切はゆるされる」と書いたその一切とは何か。
太宰治が「一切は過ぎていきます」と書いたその一切とは何か。
親鸞が唱えた「一切はゆるされる」という観念の一切とは何か。
ぼくたちは赦されなければならないのかもしれない。
劇団再生という一つの人格は、一切を一つ一つ数え上げる。
という言い方に大きな矛盾をはらんでいることがわかっていても、
そうせざるをえない。
ぼくは、演劇を創っているのではない。
言葉や肉体や要因や原因や衝動や他人を信じ信頼して『創られる』演劇。
ぼくは、そんなものを創っているのではない。
言葉を嫌悪している。
肉体を信じることはできない。
要因や原因に現在の原動力を得ることはできない。
衝動を軽蔑する。
他人それこそを排除する。
そんな場所で『信頼』を一つの大きな条件とする演劇を創れるはずがない。
ぼくは、そんな場所にはいないんだ。
だから、演劇を創っている、と言う事ができない。
他の劇団や演劇を志している人がどうだかは知らない。
正確には、ぼく以外の全ての人がどうだかは知らない。
演劇律を正しく止揚する。
それだけが、現在のぼくの創作だ。
そのために演劇における全ての関わりを絶つ。それが近道だ。当たり前だ。
これまでの悪事を一つずつ数え上げる。
傷つけた日々を無理やり記憶の表層に上げてみる。
ドストエフスキーが「一切はゆるされる」と書いたその一切とは何か。
太宰治が「一切は過ぎていきます」と書いたその一切とは何か。
親鸞が唱えた「一切はゆるされる」という観念の一切とは何か。
一切か
ぼくは、ぼくを取り巻く人々を嫌悪し続けてきた。
ぼくの言葉は嘘だ。
ぼくは、言葉を一切信じていない。
だから、ぼくは、本当のことを言ったことがない。
なんだこの観念は・・・
先日、稽古場を出て、小さな交差点を曲がった。
いつもの帰り道だ。
そこから自宅まで2分。
暗い道だ。
曲がって、カチカチと鳴るウィンカを消した。
そしたら、
帰れなくなった。
どうしても、帰れなくなった。
大通りにバイクをいれる。
アクセルを開ける。
観念がぼくを押す。
観念がバイクを走らせる。
観念がブレーキをかけさせない。
ぼくは、疑問さえ失いかけている。
稽古場で繰り広げられる破廉恥な告白。
それを見続けることは、とりもなおさずぼく自身の観念と向かい合うことだ。
わかりきった結論を下しながら、
どうしても、自宅にバイクが向かない。
帰りたい帰りたい帰りたい。
どこか、どこか、どこか、どこでもいいどこかに、帰りたい。
アクセルを開けながら
マルメラードフの真似をして「人間には帰る場所がいるんだ」と顔に冷たい風を受ける。
ドストエフスキーの創作したマルメラードフの寂しさ。
帰る場所か・・・
どこだ、そこは・・・
帰りたい帰りたい帰りたい。
稽古場は今どこにあるのか。
ぼくたちは今どこにあるのか。
バイクで走り続け、急に冷え込んだ秋を蹴っ飛ばす。
帰宅して、
そうか、帰って来たんじゃないんだな、と思った。ただ、帰宅しただけだ。
帰宅して、
ぼくが撮られた全ての写真を消し去りたいと思った。