話すこと

2010年11月28日 00:26:53

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話すことは聞くことだ、と昔誰かに聞いた。
当たり前じゃん、そんなこと、と、その時思った。
でも、

聞く、というのは、一体どういうことだろう、と、トークをしながら考えていた。

聞く、聞こえる、は、当然、違う。
聞こえている何かを聞く、わけだ。

聞く、という作業が、或いは、行為が、選別するということをその主体とするならば、
聞く、という作業、或いは、行為は、なんて独善的だろう。

と、書くと、まあ、当たり前のことだ。

聞く、ということのなんという主体的わがまま。

そのわがままが自身に対して通らなければ、人は案外、パニックか。
どうでもいいが、不完全な受容体。

そのわがままセンサーを高性能だという。
眼のセンサーもそうだ。人間の受容体・センサーは、驚くほど高性能だと。

機械では、それは難しいのだと。

論がずれていっているが、まとめようとも思っていない。

人間のセンサーが機械に対して、驚くほど高性能だとするならば、
なぜ、カメラだのレコードだのが跋扈したのか。

そんなに高性能ならば、高性能なセンサーを通して受容した「何か」を
その体内にとどめ続ければいいのではないか。

ぼくは、本当に見たいものは、写真に撮ったことがない。

本当に聞きたい音楽のレコードを買ったことは、ない。

ということを、鈴木さんとトークしながら考えていた。