そういえば実存主義に叛旗を翻したんだった
2010年12月26日 01:34:33
叛旗を翻した、と言っても論文を発表したわけでもないし、
公言したわけでもないし、身近な場所で説明をしたわけでもないし、
その道程や構造を表現したわけでもない。
「この脚本は、全く新しい実存主義だ」
と個人的な演出ノートの片隅に書き込んだだけに過ぎない。
それにしても、だ、実存主義って言うけれども、そのわかりづらいことこの上ない。
考えようによっちゃ何もかもが実存じゃないか。
歴史に名を遺した実存に取り組んだ哲学者にしても、立ち位置はばらばらだ。
実存主義を生み出したと言われているキルケゴールは「神」を主体に論を構築してるし、
ニーチェは「神」は死んだ、なんて言うし、いや、ここまではまあいい。
180度、場所が違うんだから、実存への上り方はおのずと知れている。
じゃあ、ヤスパースは? 人間と人間が作る限界からそれを構築してる。
んー、で、その逆の立場のハイデッガー。
ヤスパースとハイデッガーか。ナチスを支持するかしないかで思考が分かれてる。
とはいえ、ハイデッガーのキーワード、「気配り」「他者」。
その感情からの実存への道のり・・・わからんと言えばわからん。そんでもって、
フッサールだのサルトルだの実存に取り組んできた巨人たち。
あれ? フッサールは現象学に分類されるのか?
なんでもいいや、構造主義にしてもポスト構造にしても精神分析に身体主義、
プラグマティズムに経験論、合理主義に社会契約社会科学、ドイツ観念古代ギリシャ・・・
なんにしても、だ。
実存。
現実の存在としての人間の在り方を考えてきたんじゃないのか。
そして、誰も、それに対して巨大なイエスを突き付けた者はいないんじゃないか。
じゃあ、高木、お前はそれに対して、普遍的な一般解を用意できるのか。
と問われると、
できるわけない。
東西の巨人が人生をかけて挑んだ問題だ。
ぼくにそれができるとは思っていないし、できた、とも言ってはいない。
叛旗を翻したんだ。
実存、という定義は諾とし、それに叛旗を翻したんだ。
じゃあ、それは一体なんなんだ。説明して見ろ、高木!
まあ、そうなるだろうな。だから公言しなかったんだ。面倒だから。
だって、そんな説明に時間を費やすほど暇じゃないし、体力もない。
と書けば、逃げてると思われるかな。
まあ、いいや。今日はここまで。
今、ここにぼくがいなくてもこうして言葉は生まれ発表される。
実存、か。確かに考えるに値する、そしてその思考に一生を賭けるに値する一言だ。
でも、
退屈だ。そんなこと。
だからといって、
仕事だの社会だのしがらみだの関係だの義理だの金だの居場所だのに決して、
囚われはしない。
そんな素人じゃない。そんな素人とは話をしたくないんだ、と確か以前、書いた。
そんな退屈な彼らという「それら」と関わりたくもない。
実存的退屈。
そう書けば一番正しいかな。はい、おしまい。