電池がなくなり時計が止まり、けれども時間が止まることなく、本を読み続ける。
2011年1月1日 22:11:54
一人で楽しんでいる。
こんな舞台が一番、おもしろい。
一人で楽しんでいるときには、昔から、
機嫌が悪く思われる。そう見えるらしい。多分、
自分以外の外部に対して興味がもてなくなるからだろうけれども、
そう見えるらしい。
機嫌が悪い、という状態は、実はそれほど多くない。
ほとんどない、と言ってもあながち間違えでもない。
機嫌が悪くなっても仕方ない、と昔から思える質だ。
ただ、そう見えることは多々あるらしい。
そんな時は、案外自分との対話に満足しているときだ。
いい本を読んだり、その本と対話し続けていたり、
街での出会いや、時間との出会いがあったり。先日、
大乗仏教をがっつりと読んだ。驚くほど、理解した。わかった。
ゴータマ・ブッダから伝えられる多くの言葉が、わかった。
それは、聖書についてもいえる。
年末に、新約・旧約聖書を読んだ。驚くほど、理解した。わかった。
流れで、ダルマを調べていた。
キリスト教、禅、仏教、哲学、そんなものがこの数日で一気にリンクした。
理解した、という言葉では言い切れないほどの感動的なつながりが
この頭の中で、
起こった。
いろんな概念や観念や言葉や行動がつながりにつながった。
自分でどうしたらいいのかわからないほどの速度でつながった。
その速度は恐怖を伴うほどだった。
そんなこんなで、まさに今、機嫌が悪く見えているかもしれない。
それにしても、一冊の書物はなんという力をもっているんだ。
今年も本を読むだろう。
そして、昨年あたりからの傾向か、
本を読まない人と話をすることがますます少なくなるだろう。
裸の街、と何回か書いたことがある。口にしたことがある。
ぼくは、裸の街に拒まれ、裸のぼくは、その街を拒む。
強い意志で拒む。連れて行く言葉は決まった。その言葉だけを連れて行く。
その言葉の手をひいて、裸の街に拒まれながら、道の真ん中を歩く。
燃えるような真っ赤な衣をまとって、その街の真ん中を突っ切る。
小さくてひんやりとしている言葉の手をひいて、歩く。
読むか、書くか、死ぬか、か。
その通りだ。
わずらわしい。
頼むからつまらない言葉で接続を試みるな。
頼むからそんな低い場所でぼくを呼ぶな。
頼むから同じ街を歩いていると錯覚するな。
本を読むことが少し仕事になってきた。
読書代行、本の処方、レポート書いたり、まとめたり。
さて、こんなに自分が変わっていくことの楽しみ。
そして、これほど不変する自分との対話。
全く変わらない自分の全てが変化していく不変性。
空?
そういえば、随分と空を相手にしてきた。
けれども、年末のある日、はっきりと見た。空を見た。
手が届いた。言葉が届いた。空に触れた。空と話した。
空は、思った通りの空だった。
空が見えた。
やあ、こんにちは、君が空か。うん、わかった。
わかったよ。君が空だったのか。うん、じゃあな。もう行くよ。
空、バイバイ。
そう言って、空を後にした。
空、バイバイ。
さて、もうちょっと歩くか。
言葉の手はしっかりとひいている。逃がすもんか。
どこまでも連れてってやる。
言葉以外の「それら」は、ほら、そこに見える。
先に行く。
何度も書いてきたけれども、先に行く。