赦す

2011年1月16日 00:00:45

人が人を許すことは、或いは赦すことは不可能だ、と思考実験を続けていた。
そりゃ不可能だ。
他者を許す、或いは赦すことは、神にしかできないことではないか。
今、神の定義をここですることはしない。
一般的に認識される神、に近い神、という定義で大きくは間違っていない。

その神にしか、できないことではないか。

では、
「私」が「私」を許す、或いは赦すことは可能だろうか。
ぼくは、形而下を捨てて、或いは棄ててきた。
上京して25年、形而下を常に捨てて、或いは棄ててきた。
その結果か、あの頃と現在、なにも変わっていない。

白髪が増えた。
しわも増えた。
見た目の多少は変わっただろう。

けれども形而上におけるなにもかもは何も変わっていない。
きっと、形而下を二の次以下的に捨てて、或いは棄ててきたからだ。

今もそうだ。
形而下の事事を捨てることに棄てることに何のためらいもない。
一日の形而下的出来事一つをとってみてもそうだ。

ぼくは、形而上でしか口をきかない。
数年前からそう決めている。
ぼくは、形而上でしか話をしない。対話をしない。会話すらしない。
形而下で発声されるぼくの声が聞こえ、会話がされていると認識されるなら、
それは、形而下に主導されている証拠だ。
そんな会話対話に合わせて発声することなんか簡単だ。

なんの思考もなく話せる。
考えなくても話せる。
ただ、

退屈だ。退屈で仕方ない。
退屈を軽蔑する。退屈を受動的にせよ甘受する人を憐れむ。
形而下の事事に顔つきを変える人々を寂しく思う。
形而下の時間に踊る人々を悲しく、見る。

そんな人々なんかどうでもいい。
ただ、ぼく自身に近づいてほしくはない。

ぼくは今忙しいんだ。
「赦す」とこを考えるのに忙しいんだ。
これを考えつくしたら、もっともっと考えることがあるんだ。

いつか、きっと、ここにちゃんと正確に書くこともあるだろう。
その時の結語が「さよなら」か「こんにちは」か、それはわからない。

ただ、きっといつか、ここに書くだろう。
訣別と時間の近隣、或いは、訣別とその向こう側について。

その時に形而下の人々という曖昧な表現も正鵠を得るだろう。