ぼくは時代の中にいるのか

2012年1月28日 21:48:26

夕方、いつも行く安売りスーパーの裏の道。
買い物を終えて、バイクに乗ろうとしてたら、
数メートル先で小さな女の子が、転んだ。
日陰に残る凍った雪に滑ったようだ。途端に泣き出した。
火がついたように、という形容があるが、まさに、それだ。

周りに誰もいない。
その子のところに行き、「大丈夫か?」と声をかけた。
ちらっとぼくを見たその子は、前にもまして大声で泣いた。
知らん顔するわけにもいくまい、と怪我の様子を確かめる。

こんな季節だ。長ズボンにダウンをつけている。
露出している部分は少ない。ざっと見た感じ、怪我はないようだ。
それにしてもすごい泣き方だ。もしや骨折とか、頭を強く打ったとか、
そんなことを思いながら、「どうした。痛いのか?」

凍った雪の上に倒れた格好だ。年齢は、5歳くらいだろうか。
「どうしたの!」と背後で声がした。母親らしい。
きっとぼくより随分と年下だろう女だ。ぼくに強い目を向けている。
「転んだみたいで」と声をかけたが、そのぼくの言葉には反応せず、

小さな女の子の右手を乱暴につかみ、女の子を引き上げ、
引き摺るようにどこかへ行ってしまった。
そんな夕方の時代の概念。

時代が書かせた小説というものがある。
時代が唄わせた歌、というものがある。
時代が撮影した映画と言うものがある。
時代が生きさせた人がいる。
時代が干渉した時代がある。

数年前、『ジダイに残したい本』という企画があった。
ぼくのところにもそのアンケートが回ってきた。
ある出版社の企画だったが、その後どうなったのだろう。
ジダイは、「時代」でも「次代」でもいいのだろう、と解釈した。
いいアンケートだと思った。

次代に残したい本、その趣旨はよくわかる。
時代に残したい本、これが難問だ。時代をだれがよく定義できるだろうか。

時代の中にぼくは生まれたはずだ。
時代の中にぼくは生きているはずだ。

そのはずなのに・・・

今日の夕方。小さな女の子が滑って転んで泣いたことの時代。
それを考えながら、自宅まで帰った。
時代の正体を正確に理解し把握することは、時代の中にいたら無理だろうか。
そんな時代の考察を超自然原理として捉えるならば、
ニーチェの言うように絶対不可能だろう。それともイデア論的に考察すべきか。

ぼくは時代の中にいるのだろうか。