次回公演の稽古に入った

2012年2月11日 23:18:49

正確には、『稽古』ではないのだが・・・

じゃあ、何だ、と問われると適切な一語が、ない。
長ったらしく説明したとしても、「それが稽古なんじゃないの?」
と言われるだろう。だが、似て非なるものなんだ。
決して、「稽古」ではない。

稽古場でも、制作会議でも、普段の会話でも、
「便宜上」、そして、スムーズな会話のために『稽古』と言うが、
正確には、『稽古』ではない。

近い言葉、か。
『出来事』と言えば、案外近いかもしれない。
が、違う。『ハプニング』でもない。

『感覚』

案外近い。
「今日は、感覚なんですよ。だからちょっとその会合には主席できません」

「明日の感覚は、今日の感覚の続きからね」

なるほど。近いと言えば近い。んー、なんかぴたりとくる言葉はないかね。
『稽古』に替わる正確な言葉は見つかっていないが、
今日から、それにはいった。今日のそれで、ほとんどできた。
何ができたかと言うと、約束を予感することにおけるあれだ。
今日のそれで見えたのは、まさにそれであり、あれである。

もちろん、うまいこと言おうとすればいくらでも言えるが、
そんな子供だましが通用するフィールドはとうの昔におさらばしたんだ。
そんな場所でのそれは、今でも『稽古』だと息巻いていることだろう。
という上記の説明に説得力あるとはもちろん思っていない。
そして、説得力さえ、かつての『稽古場』に棄ててきた。

説得しなければできないような予感的な約束をするという子供だまし。
感覚と仮定したそれにおける説得力はもちろんそのまま約束の舞台に顕れるはずだ。
だから、約束のあれを観に劇場に足を運ばれた『観客』という出演者は、
混乱すること必至だろう。けれども、『読書劇』という『毒薬』は始まったばかり。

混乱必至のあれも、うまいこと目くらまし。
分かったようなわからんような説得力を持たせることくらい簡単だ。
誤解なきよう!
『観客』という「出演者」を愚弄しているわけでは、決して、ない。
当たり前だ。そんな愚挙にでるほどお人よしではない。
ぼくは、この高い木の上で独りぼく自身を説得することに必死なんだ。

例えば、『表現』という言葉が、そのまま一般性を持って『表現』と言われ、
それが、この場所に存在するとするならば、

ぼくは、『表現』という語の真の意味を理解している。
寝汗をかいて今朝ぼくを目覚めさせた夢は、まさに『表現』の具現だった。

「曖昧」という文字が、ぼくの体をはい回っている夢だ。
履歴書の「賞罰欄」に書かねばならぬことを書いている時に、
どうしても「曖昧」という漢字が思い出せず、
隣にいたきこりの親方が早くしろとぼくをせっついた。
早く書け、早く書かないと、俺もお前も終わりだ、と。
「曖昧」が思い出せない。
賞罰欄は、空欄のままだ。
きこりの親方が怒っている。
その時、足元から、「曖昧」がもぞもぞと這い登って来た。

「あっ、曖昧、だ」とそれを見つけたとき嬉しかった。
これで、賞罰欄を書ける、と。
「曖昧」を良く見ようと、足元をみたら、「曖昧」はくるりとひざの裏。
首を回して「曖昧」を追いかける。
「曖昧」は、あっちに行ったり、こっちに行ったり、
なかなかその全貌をぼくに見せない。親方が怒鳴る。

「早くしろ!」

その親方の怒鳴り声がきっかけになったのかもしれない。
「曖昧」の子供たち、小さな「曖昧」が大量にやってきた。
足元から登ってくる。お父さん「曖昧」は、胸のあたりにいるようだ。
あかちゃん「曖昧」は、ざわざわと一生懸命に上ってくる。
足元を見たら、小さな赤ちゃん「曖昧」に埋め尽くされている。
恐怖だ。

という夢で汗だく。
そして、それが『表現』という語の真の意味だ。
同時に、今日から行われるそれを説明するのに一番近い説明がその夢、

のような気もしている。