何か知らんがあちこち痛い
2012年2月25日 22:25:04
偏頭痛は相変わらず続き、目の奥に鉛を埋め込んだような不快感。
腰痛が残り、胃部不快感。背中からおでこにかけての
なんだか斜めのラインに発熱を感じ、稽古場で行われたあれを引き連れ、
帰宅した。
なるほど。演劇公演のための稽古をすることはなんて簡単だろう。
そう感じ続けている稽古場だ。
稽古場で感覚するあれを読書と言う概念に引き上げることの五里霧中。
右手ではしを持ち、いつものようにご飯を食べると言う出来事は、
右手ではしを持っているという事実を考えずに行える。
演劇の公演が、まさにそれだ。
今ぼくは、左手ではしを持っている。
はしの使い方を一口ずつ確認しながら、口に食物を運んでいる。
味わう、までは、ほど遠い。
同じ肉体なのに、自由自在に、といかないことが不思議だ。
いつか、左手の演劇も、右手の演劇のように慣れてしまい、
その出来事が行われているという事実そのものを無意識で行うようになるのだろうか。
そうなれば、また右手にはしを持ち替え、
今度は、ご飯を口に運ばずに、視覚と嗅覚だけで満腹感と味わいをえようとでもするだろう。
慣れることが嫌なのでは、決してない。
慣れることを否定する訳では、決してない。
慣れてしまうことの無意識に非礼を感じはするが、決してそれを否定しない。
ただ、慣れ親しんできたこの数十年の
「演劇」と呼ばれるもののあまりの堕落にぼく自身がくじけているだけだ。
時間は守らない、
言葉は軽んじられる、
慣れが個性と呼ばれる、
換金性と時間性が秤にかけられる、
そんな場所は、ごめんだ。
演劇。
嵐の前兆すら感じることのできない、現在。
わざわざ嵐に向かって船をこぎ出すのは、間違っているのだろうか。
あえてそこに向かうのは愚か者のすることだろうか。
それはどうだか知らんが、嵐が目の前に在る。
それほど大切な命か。
それほど大事な己か。
もちろん、命の尊さを軽んじての発言ではない。
埴谷雄高ではないが、
あんたらは、ほんとうに「自分自身」を考えつくしたことはあるのか。
ほんとうのほんとうに「自己自身」を考えたことはあるのか。
喧嘩腰の夜。なんか知らんあちこちの痛みは、ぼくに「生きろ」と伝えてくる。
「生きろ」「生きていろ」と。
たった一言、それだけをこの夜、伝えてくる。