ぼくは、それらと共にある

2012年3月9日 23:24:01

ぼくたちは言いたいと思っていることを言ってはいない。

感覚的なものをも一般的なものとして言葉で表現する。

そして、ぼくたちが言葉で表現するものが存在するのだ。

「このもの」とは、すなわち一般的な「このもの」のことだ。

あるいは、「それが存在する」とは、すなわち「存在する」一般のことだ。

感覚的確信を言葉で表現しようと試みることは、

例えばヘーゲルにとっては、

言いたいと思っていることを言葉で表現することの不可能性を経験することを意味している。

言語活動は、言いたいと思っていることをそのまま反転させて、

なにか別のものに変えてしまい、

言葉に表現することのできないものにしてしまうという、

神にもふさわしい天性をもっている。

夜だ。

この夜を待っていた。

エレウシスの夜だ。アリストテレスの「命題論」は、ここだ。

ぼくは、死すべき存在であると同時に、

言葉を話す存在として、ここに登場した。

ぼくが、あるいは、人間一般が、

言葉を話す存在であるとともに、死すべき存在てある限り、

現にないとろこのものであると同時に現にあるところのものではない否定的な存在なのだ。

ハイデガーは、それを「無の場所の保持者」と呼んだ。

ハイデガーか、代名詞の問題を提供しようか?

「存在と時間」を読みこなした君とは、

ヘーゲル的代名詞とハイデガー的代名詞について、

この保持されることの夜、静かな発熱とともに語り合うことができるだろう。

わたしは、I?

わたしは、わたし?

わたしは、ego?

わたしは、ich?

わたしは、ja?

わたしは、ぼく?

どれもこれも「わたし」

どれもこれも「わたし」であるところにおいて、幾多のコードを与えられる「わたし」

「わたし」は、シンボルか。

わたしは到達しがたい

沈黙

そして多くの思い出が残っている

エピノイア

わたしは多くの音に

起原をあたえる声

そして多くの像をもつ

ロゴス

わたしはわたしの名の発音者

明日は劇場入り。

もう何十年も、劇場入りの前の日に読もうと思っている書物がある。

思い続けてこれまで一度もそうして読んだことのないものだ。

今日は、読めるだろうか。

エメリック・ド・ペギーラン『論争詩』

今日は、読めるだろうか。

ぼくは、こうして、夜とともにある。