伊藤正福さんから劇評をいただいた。
2012年4月3日 13:34:49
読書劇『青春の墓標』に想う
言霊たちの棲まう場所
伊藤正福(劇作家・演出家)
「暴虐の雲 光をおおい 敵の嵐は荒れ狂う ひるまず進め 我らが友よ…」
(『ワルシャワ労働歌』)
漆黒の闇を裂く、ときならぬ革命歌。
かがり火のような薄明かりに人影妖しく浮かび、呪文のように、
またアジテーションのように、熱を帯びた声が、記憶の扉をおし開く。
開幕前に飲んだワインの酔いも手伝って、
抗いようもなく40年以上も昔の、あのころにさらわれていく。
『青春の墓標』は、まぎれもなくわれらがバイブルであった。
同じ年ごろの若者が、こんなにもたくさん本を読み、考え、悩みぬくことができるのか。
『ド・イデ』を読むと、その難解さにフケが落ちる思いをするのか。
革命は恋愛をも阻むのか…。
後にマルクスを漁りながら実感することになる、わが青春の原点だ。
あれから幾たびの引越しを共にし、今でも家の本棚の片隅で幽かなパルスを送りつづけている。
けれど、ただ捨てられないというだけのこと。
その本の紙の匂いとざらつく感触を、再び味わう日が訪れようとは――。
奥付には「昭和44年8月30日 第21刷」とある。大学に入った年だ。
二十歳になったばかり。
これから人生が始まるというのに「墓標」かよ、とは思わなかった。
夭折ということばが、そのころはまだ甘味な香を放っていたのだ。
ベトナム反戦、大学解体を叫ぶ反体制運動が吹き荒れていた、あの時代のこと。
大学生協はいうにおよばず街の書店でも平積みだった。
党派を超えて活動家という活動家が、シンパも含めて心ある若者は一人残らず読んでいたような記憶がある。
* *
「わたしが死んだら、なにか変わりますか」
劇中繰り返されるこんなフレーズも、この歳になって感じるのはただ痛ましさのみ。
「愛を断念し、死と和解せよ!」
フロイトのことばだ。
『小箱選びのモチーフ』の中で、シェイクスピアの『リア王』を援用したくだり。
娘たちの愛を頼って破滅した老王の悲劇に対してフロイトは、この冷厳なる真実のことばを投げつけた。
それは、老いを悟った自身への戒めのことばでもあったはずだ。
若者には、ついに無縁のことばであって欲しい。さてしかし―。
散ることこそますらおと、おのれの美学に殉じたサムライがいた。
60年代の終わり。荒れるデモがいっそう過激化することを望んだ。
そのときこそ治安部隊の出番だ。自衛隊が国の守り手である国軍としてその勇姿を現す、と。
70年秋、市ヶ谷駐屯地のバルコニーからクーデターを訴え割腹自殺して世間を瞠目させた三島由紀夫だ。
でも、ホワイ・ミシマ?
連想の輪を辿ると、この舞台の高みにミシマが君臨せねばならなかったことの合点がいく。
キーワードは「片恋」か。
『青春の墓標』の奥浩平は世界人民への。
『憂国』の作家・三島由紀夫は大和民族への。
そして世の割り切れない現実の中で、
それでもピュアーに生きんとする浪漫者の耳元でささやくタナトスの誘惑―。
* *
それにしても、ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ジャパン、に違いない。
あのころの暗く熱い情念を、若い役者さんたちはよく伝えていたと思う。
とりわけ三島の檄を淀みなくやりきってみせた男優さん。お見事というほかない。
高木司祭による「読書劇」の、これが企みかと感じ入った次第。
ともあれ、60/70年代への、あるいは昭和という時代へのオマージュ、鎮魂だ。
エピローグの連続こそふさわしい。
陽水の『傘がない』が心に沁みる。微分的に再生された声の震えは初めて聴くかのよう。
森田童子の儚げな声はどうだ。
「墓標」に降り積む綿雪を幻視させ、能の謡にも似て幽玄さえ醸す。
* *
もう一度、原作のページをめくってみる。
ポールペンによる傍線は若き日の思索の跡だ。
今ならこんな箇所に引くだろうか。
「九歳だった。
五月だった。
今のように新しい家のにおいがぷうんとしていた。
一つの場面は鮮やかにぼくの頭に残っている。
食卓を中に向かい合っていた父と母。薄気味悪い静けさ…。
母は家を出ていく。
ぼくもついていく。
もう10年も経った。
母はまた帰ってくる。
彼らの間にどのような反省がなされたのか知らない。
父はとし老いた」