久しぶりに腕時計を取り出し、ネジを巻いた

2013年4月9日 02:14:24

特に意味があるわけではないのだが、不意に腕時計が見たくなった。

不意に見たくなったことに、何か意味があるのかもしれないけれども、

深く考えようとは思わなかった。

銀色に腕時計。

使っていなかったのだから、当然動いてはいなかった。

ネジを巻く。心地いい感触だ。大好きな感触。指先に複雑なゼンマイの駆動を感じる。

時計は動き始めた。

きれいだな、と思った。

昔、腕時計を集めることに一生懸命になっていた時期があった。

もう20年も前の話だ。

その頃はまだインターネットが一般的ではなく、

情報は足や信用で得るものだった。

どこそこに、あのモデルが入荷したらしい、

あの店にはまだ、あれが眠っているらしい、

今ならまだあの限定が手に入るらしい、

らしい、らしい、で、どこにでも足を運んだ。

それで狙った時計を入手できたこともあるし、できなかったこともある。

偽物だのどうしようもないものを掴まされたこともある。

何十本もの時計は、ある日、全て手放した。

つきものが落ちたように、時計の蒐集が全くの無意味な行為に思えたのだ。

ほとんどを友達とか痴人とか誰かとかにあげた。

もういらんからもらってくれ、と。

手元に残したのは、数本。

今日取り出した一本は、その時の時計ではないのだが、好きな時計だ。

ネジを巻いた腕時計。

腕につけてみるとずっしりと重く、頼もしい。

ネジを巻いた時計。動き出した時計。それがなにか特別な意味をもつのかどうか。

文学的にはいくらでも意味を持たせることができる。

ネジを巻いて動き出した秒針、という事実だけで、泣かせる物語をでっちあげるなんて簡単だ。

その事実だけで、形而上的な小うるさい片言に仕立てることも簡単。

その事実を一片の小説に、恐怖の小説に、あたたかい物語に、と
何にでも料理できる。

意味のない事実に意味と物語を与えることが、何かの商売だとしたら、
どうにもやっぱりやりきれん。

その出来事は、誰のものか。

或いは、誰のものだったのか。

そもそもの所有権はどこにあったのか。

その所有権に付加価値をつけて、移動させるという出来事について考えるという出来事。

と言ったところで、そこに何か価値がるものでもないのだが、

そこに価値があると見せかけて商売にするという下賤な構造が

今ぼくたちがいるこの複雑怪奇な構造を創り上げてきたのだとしたら、

それはそれでやっぱりそこに何がしかの価値を認めざるを得ないのだろう。

とはいえ、だ。

ぼくは、そもそもの所有者として、そこで耐える。

それが、来月の作品なんだ。