「世界」、とは、誰もが、よく使う言葉だが

2014年7月20日 22:31:55

この世界

世界一の

世界観が

世界を相手に

感覚的なことでも、地勢的なことでも、観念的なことでも、
具体的なことでも、感情的なことでも、客体的なことでも、

誰もが、「世界」と、使う、口にする、書く

しかし、真に、「世界」を知ることはできるのだろうか

地勢的においても、「世界」を一人の人間がその全てを知覚することは絶対に不可能だ

感情的感覚的視座においてはそれは絶対的個人内の問題であり、

具体的客体的視座に立てばそれは必ず机上の推論に終始する

観念において「世界」を知覚することが、

その全てを理解する一番の近道だとは思われるのだが、

それを理解した瞬間にそれは必ず否定される

それが、観念の主たる動作にほかならないからだ

世界

それは、悟り

と、言い切ってしまうのはどうだろう

というのは、ぼくはそれに今日、近づいた感覚を確かに得た

「悟ったの?」と問われれば、「いや、そうじゃないんだ」と答えるが、

答えるが、だ、

いざ「悟り」を「世界」という語に置き換えることができるならば、
ぼくは、高らかに巨大なイエスを突き上げる

それにしても、何かを得るためにはそれに見合う何かを差し出さなければならない
その当たり前のことを体感している
差し出すものがないぼくは、何かを犠牲にするしかないのだが

何を犠牲にするか
この、一個の肉体にほかならない

ああ、いかん、口調が高橋和巳か