何も見えない、という日が、いつか来るのだろう
2014年9月4日 22:26:54
今は、いつかそこに在るべき作品がぼくを呼ぶ声を聞くことができる
作品に選ばれ、手招きされていることがわかる
その感覚と全く何もない「ところ」に作品を見てしまう、ということは、
同じことのように思えて、違うのだ
時間的な差異もあるし、その作品がよって立つ「ところ」という地政学的差異もある
作品に呼ばれるのが先か、ぼくが見るのが先か、それは自分には全く感覚することができない
時間的にも差があることはわかるのだが、きっとビッグバンから宇宙が創生されるほどの
驚くほど短い、しかし、巨大な時間のような気がする
そう、見えている
見える、というと、非常に視覚的な感覚なのだが、確かに、視覚野における脳の認識だ
そして、作品の声が聞こえるというのも聴覚に起因するのだが、それも脳の認識だろう
もちろん、認識と錯覚は、紙一重だ
確かに見えているし、聞こえている
一つの作品を創っているその最中にもいくつものそれが見えるし聞こえるし
会場に作品を持ち込みその展示の準備をしたりしている時にも聞こえるし見える
その感覚を、「さあ、次は!」という形而下の言葉を持って伝達したり、
自身において認識したりするのだが、
だが、
これまで見えて、聞こえていた、あれらの姿や声が見えなくなったり聞こえなくなったり
そんな日がきっといつかあるのだろう、と思う
いつまでもそれが続くという根拠はまったくないし、
それを見て聞いてきたことがぼく才能でもないし特質でもない
それがあることはただ、不思議なことであり、その原因もわからないし、根拠も知らない
だから、それらがいつなくなってもおかしくないし、恨むことでも悲しむことでもない
それは、確かにそうだ
わかっている
例えば、それらが見えず、聞こえなくても、一つの作品を創り発表することはできるだろう
簡単なことだ
形而下におけるこれまでの作品創りでの様々な経験を組み合わせたり重ねたりすれば
「それらしい」ものは、できると思う
そんなことを何年も繰り返している人々をたくさん知っているし、ほとんどがそうだとも言える
それはそれほど難しいことではないだろう
しかし、そうした作品を創ることを、ぼく自身ではなく、ぼくの筆がぼくの絵の具がぼくのキャンバスが
拒否するだろう
見えなくなったことをそれらに告白すればどうなるだろう
見えず聞こえず、
だから作品が創られることもなく、ぼくの筆もぼくの絵の具もぼくのキャンバスも
いつか、そこでほこりをかぶり朽ち果てるだけだ
朽ちてゆくぼくの発色を見ながら、聞こえない声を待ち続け、見えない画を待ち続け、
ぼくは、何を思うだろう
今は、恐怖、という言葉しか思い浮かばない
根拠がないということがこれほど恐ろしいことだとは
原因を突き止めることができないということがこれほど恐ろしいことだとは
金を積めば何かが見える、とはっきりしていればいいが、そうでもないらしい
誰かを傷つけ誰かを泣かせ誰かを陥れれば、何かを創ることができるのなら、と思うが
そうでもないらしい
毎日善行を積み重ね祈りを積み上げてゆけば何かが聞こえるというものでもないようだ
わからん
大体、これまで、なぜぼくにあれらの作品が見えていたのかさえ、わからないのだ
そんな不安な不可解さを抱えながら、
見えたもの、聞こえた声を作品にしてきた
なぜ、それがそうやってできたのだろう
あの作品たちは、どこからやってきたのだろう
あの作品たちは、どうやってやってきたのだろう
わからん
わからん、と無思考にやり過ごしていっていいのだろうか
考えねばならない大きな問題のような気がするし、この問いを解いてしまえば、或いは、
作品を創る、ということのなんたるかが、形而下の言葉として、理解できるのかもしれない
ゴッホの行為がそれらの問題を突破するためのものだとは、ぼくには思えない
そんな解釈が大手を振ってまかり通っているが、ぼくにはそうは思えない
そんな例はいくらでもある
それはそうと
わからんな、と呟いてみた
オープニングしか書けていないまだ見ぬ脚本を前に