阿佐ヶ谷の地下に見沢知廉の命、ぼくたちは空に手を伸ばす

2009年8月27日 20:52:42

【撮影・平早勉】

ぼくたちは、空に手を伸ばした。
空よりももっと高い空に手を伸ばした。
その手に、

例え何かをつかむことができなくても、空に手を伸ばし、
空よりももっと高い空に手を伸ばし、爪先立ちぼくたちの一番高い空に手を伸ばし、
空よりも高い空に手を伸ばした。

阿佐ヶ谷地下に見沢さんの資料を並べながら、
ぼくは、何度も見沢さん、と呼びかけてみた。
アラーキーの撮った大きな一枚の写真に、話しかけ続けた。

こうして公演が終わっても、頭の中が興奮しているのがわかる。
冷静じゃない。思考が曖昧だ。
脳髄の何かが邪魔をして、合理的な判断をさせようとしない。
けれども、これまでの何十何百という公演とは、少し違うな、と今、思う。
公演が終わった夜に、ぼくは偉大な夜を、した。

それは、稀有なことだ。
そして、これまで以上に夜が好きになった。
ぼんやりといつもの机についてみると、この公演のいろんなことが懐かしく思い出される。
遠い過去のようだ。

『LEON』を観ながら、見沢さん、と声を出してみる。

映画は、何度も観ることができる、というのが最大の欠点だ。
少なくとも劇場だけで公開するべきだ。DVDなんかにするべきではない。
TVで放送するべきではない。

それは、映画の弱点を自らさらけ出すようなものだ。
こうして、大好きな映画をDVDで観ながら大上段。
プレイヤにいれるといつでも観ることができるから、とっても嬉しいけれども、
それは、映画という文化作品或いは芸術作品に対しては非礼だ、と思う。

演劇は、劇場で観るべきだ。
映画は、映画館で観るべきだ。
絵画は、美術館で観るもだ。
あれやこれやは、博物館で文学館で資料館で見るものだ。

観なかった者は、ただ後悔すればいい。

絵画を観たいと思った。
不意に思った。

印象派でも新古典でも象徴主義でもレアリスムでもロマンでもアカデミズムでも、
いい絵を観たいと思った。
その観たいと思ういい絵は、さすがにこの部屋にはない。
幾冊かの画集があるだけで、けれどもそれでは満足できそうにない。

いいだろう。町へ出よう。OK!と言うと、
ジャン・レノが「OK、OK、言うな」と言った。

ぼくは、見沢知廉という人生に一枚の絵を見ていた。
そのことを公言したことは、ない。劇団員にも話したことはないんじゃないか。
たった一枚の絵。
タイトルは、

何だろう。
名付けるとすれば、「複素平面の強がり」
そんなところか。

2年前、三回忌追悼公演の脚本を書いているときには、その絵は、もう見えていた。
同じ絵が、今も見えている。
描いてみろ、と言われれば、なんとなくは、描く事ができそうだ。
でも、脳髄の影に見え続けているその絵を正確に表現することは、ぼくにはできそうにない。
絵描きさんが、羨ましい。

だから、なのだろうか。
絵を観たいと思っている。
どこの美術館に行っても、見沢さんの人生は描かれてはいない、はずだ。
その模倣さえ、ないだろう。
でも、見沢さんは、きっと居る。

それは知っている。
見沢さんが美術館に居ることを知っている。
うまく説明できないけれども、塗り込められた時間の中に。

見沢さんは、美術館に、ある。爆破されなかった美術館だ。

塗り込められた時間をぼくたちは知る。劇団再生は知っている。
その時間の狭間で苦しい呼吸をしながら、ぼくたちは空に手を伸ばす。
そんじょそこらの空じゃない。空よりももっともっと高い空だ。
ドストエフスキーも手を伸ばした空だ。
トルストイも太宰も三島も手を伸ばした空だ。

塗り込められた時間と時間の狭間、そこは、稽古場だ。
そこは、そして稽古場が拡張された、劇場だ。

映画のように何度も軽々しく見世物にならない両刃をもつ演劇だ。
この高木ごっこで、何度も演劇の非記録性の優位を否定してきた。

生ものだから価値があると信じてきたチンピラ演劇人の傲慢と怠惰と薄ら笑い。
記録されないから価値があると豪語してきたチンピラ演劇人の停滞。
一回性故に価値があると黴のはえた論理を振りかざす輩という輩。

演劇は、記録され、美術館に、或る。

ぼくたちが伸ばした空は、今もある。
そりゃある。高い高い高い空だ。そこに、届け、届け、届け、と手を伸ばす。
何もつかめない両手を握り締めて、

あなたの名前を呼ぶ。

あなたの名前以上の言葉をぼくは、知らない。

あなたの名前も、そう、美術館にある。爆破されなかった美術館だ。
ぼくたちは、空に手を伸ばす。
空に伸ばした手を、自身見つめ、名前を呼ぶ。最大にして唯一語の言葉だ。