劇作家伊藤正福さんから劇評をいただいた

2012年10月9日 22:06:48

レクイエム、『正義の人びと』のための終わりなき


弥陀ノ手二利剣アリ左手自由の経巻ヲ展べテ右手専制ノ剣ヲ揮フ
――北一輝


二十世紀初頭の帝政ロシア。
カリャーエフというひとりの若者がいた。
革命党に属し、モスクワ提督(セルゲイ大公)を暗殺して絞首刑になった。
「自分の死を、血と涙の世界に対する最高の抗議とみなしている」
――法廷での最後のことばだ。
仲間うちでは「詩人」と渾名されていた。

戯曲『正義の人びと』では、同志たちとの激しい議論や獄中での大公妃とのやりとりのなかで、
その思想と行動が浮き彫りにされていく。

「不条理」の哲学で高名なアルベール・カミユの作だ。
戦後間もないフランスで上演され大成功を収めたという。
反ナチレジスタンスの記憶新しい時代の雰囲気も与かってのことだろう。ともあれ――。

野蛮なツァーリ専制下、いっさいの暴力を終わらせるためならテロは許されるか?
罪のない子どもや奥方を巻き添えにするのはどうか?
革命は同胞愛のためか、権力への憎しみによるか?

平成日本のリアルからはもっとも遠い、すこぶるつきの「大きな物語」である。
けれど、なんでいまさら? と問うなかれ。

「反抗的人間」への偏愛、その生と死の形而上学へのこだわりである。
それを自らのアイデンティティとする高木さんが定めた照準だ。
志向(あるいは嗜好)を共にできない者は、ついに招かざる客となるほかない。
「注文の多いレストラン」ではないが芝居小屋が人を選ぶのだ――
「俺にはこれしか見えん!勝手にしゃがれ!」と。
それだからこそ、他では体験できない面映さと居心地のよさに同時に浸らせ、
「解読」を強い、「次はどんな?」と期待させずにはおかないのだ。けどね。

今回はおおきくふたつばかり、一工夫欲しいなと思ったところがあった。
まず、三島由紀夫『憂国』の扱い。
青年将校とその新妻の自死の物語である。
これをカミユのこの作品に挿入するというアイディアは、凄い!シュールというほかない。
あえて俯瞰してみると、例えばこんなふうに辿れるか。

セルゲイ大公が暗殺されたのは1905年、日露戦争の年である。
この戦争に反対した幸徳秋水とその仲間たちが5年の後「大逆事件」で処刑され、
これに憤慨した石川啄木が「テロリストのかなしき心」を詩にする。
1917年にはロシアでついに皇帝が倒され社会主義政権が樹立される。
その2年後、北一輝によって『日本改造法案大綱』が書かれ、
そしていよいよ1936年、雪降りしきる帝都を血に染めた「二・二六事件」だ。
皇道派の青年将校たちが自ら正義と信じるものに殉ずる…。

いささかバタフライエフェクトめくが、いずれにせよ後発帝国主義国家の軋みが背景だ。
身も捩れんばかりの魂のドラマという点で、ふたつの物語はつながる。
しかし舞台では、決して交わることのない異時同図の観――。

思うに、ここは明快な転調によるふたつの絵として、
つまり二部構成といった感じで描いたほうがわかり易かったのではないか。
ロシア的リアリズムと日本的様式美ふたつながら際立たせ、
かつ当初のモチーフをよりよく生かすこともできたのではと。

あるいはフェアリー役のふたりをもっと活かして、これらを上手くつないでもらうことはできなかったか。
(例えば、ブランコの上で本を読み続ける役者さんに啄木の『ココアの一匙』を朗読させ、
もうひとりには「インターナショナル」や「昭和維新の歌」などをつぶやくように歌わせるなんてのも)

そしてもうひとつは、セリフについてだ。
挿入歌の選曲の妙といい、圧倒的な音質音量といい、
ポップなオペラの印象が高木ワールドの魅力にはちがいない。
けれどこの作品では、静謐さ漂う朗読劇のごとく一言のセリフも逃さず全部クリアーに聞き取りたかった。

「ときどき、あたし、ステパンの話を聴いていると、怖くなるの。
別の人たちがやって来て、あたしたちを楯に取って人殺しをするかもしれない、
そういう人たちは自分たちの命で支払うなんてことはしないかもしれないわ」
(カミユ『正義の人びと』よりドーラのセリフ)

こんなことばたちを噛み締めながら、この人類史永遠のジレンマに想いを巡らしてみたかった――
革命は、必然的に全体主義に転化すべきものなのか?
「維新」なる言の葉乱舞する今日、実にアクチュアルな問題ともいえまいか。

降り積む雪は、幾星霜のときの堆積。
そのおびただしさに「なにもかも埋もれてしまえー!」と声を絞るか、
「去年の雪いま何処」と静かに詠むか、

いずれにせよ『正義の人びと』への鎮魂の儀式であったに違いない。

(2012/09/30イトウ)