高木ごっこ・・・491-94『ラストシーンが書けない。全く書けない。こんな経験は初めてだ。劇団合宿での3日間、全身から離れないその感覚。ラストシーンが書けない』【DVD】『LEON』

2008年10月5日 20:38:06

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劇団再生。合宿に行って来た。

劇団が立ち上げられたときから、議題に上がっていた合宿。
さて、どんなことになるやらと楽しみに静岡は裾野。

3日間の全日程を無事に終え、帰宅してここに座った。
睡眠不足と運転の疲労がべったりと張り付いている。粘度の高い疲労。

いつものコーヒーを淹れてみる。
日常を取り戻そう。洗濯をする。コトバの奴と話をする。

この合宿で、次回作品『スーザンナ・マルガレータ・ブラント』の稽古に入った。
本読みからオープニング。

そう、本読みをした。この脚本の『何か』を俳優に話した。
うまく話せなかったけれども、話した。
本読みをした。俳優それぞれの声でこの一本の脚本を知った。
ラストシーンが書かれていないこの脚本。

自分以外の他者が確かに居ることを知った。

そして、この脚本のラストシーンが書けなくなった。

脚本家が書かなければ、脚本はない。
脚本家がラストシーンを書かなければ、その脚本にラストシーンはない。
そりゃそうだ。わかっている。
でも、書かれている登場人物という『人間』には、それぞれのラストシーンがあるのではないか。
他者である脚本家が、
登場人物が自身決定するラストシーンに干渉することが許されるのだろうか。
もちろんこのロジックには、拭いようのない矛盾をはらんでいることは分かっている。

人間を書きたいのか、そうでないのか。
人間が好きなのか、そうでないのか。

登場人物の自己決定への参加。
登場人物への干渉。

演劇って何なんだ。

それにしても、こんな感覚は初めてだ。
これまでにたくさん脚本を書いてきた。
自分が書く登場人物に愛情をそそいできた。
大好きな登場人物がいる。心から愛おしい登場人物がいる。

脚本家と登場人物の関係って何だ?
登場人物と俳優の関係って何だ?
俳優と脚本家の関係って何だ?

ほんとにこんな感覚は初めてだ。
ラストシーンが全く書けない。
完全に止まっている。
たくさんの画があるけれど、それらの完全な画と言葉との間が(多分)ほんの少し乖離。

んー、参ったな。
参った。

合宿、裾野、3日間。
どこに居ても、何をしてても、誰と話をしていても
頭から離れなかった、ラストシーンの構築。

参った。

車を運転して、帰ってきた。
雨が降り出す前に帰ってきた。
夜の予定は、キャンセルした。
『レオン』を観る。

帰路の車中、東名高速。
行きとは打って変わって静かな車中。
なぜ静かなのかは、劇団員にそれぞれだろう。静かが車中に伝播していた。
静かが伝播する。
この車中こそが演劇だ。これを再現することが表現の本来だ。
そんなことを思った。
或は、それを創現することが。

そうか、人間を創らないといけないんだ、やっぱり。

神様だけが可能と言われてきた生命誕生。人間創造。
神様への挑戦。神様への反逆。人間創造。

東名高速、海老名。日曜日。
そこには、自分の知らないたくさんの他者がいて、それぞれが人間。

しかし、参ったな、こりゃ。