こんな夜はいくつも知ってる。映画を観よう。あの彼の目を見よう。【DVD】『太陽がいっぱい』

2008年11月23日 22:51:53

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満身創痍で帰宅した。ほうほうの体で帰宅した。

考えることは得意なはずなのに、うまくいかない。
どうしてうまくいかないか、それは分かっている。
語る言葉に不自由なこのポンコツ頭。
思考と出力される言葉の間に、あきらかに乖離した思考が入り込んでいる。
その処理の方法に慣れていない。
2曲の音楽を聴いている10分間に思考と出力のそのいびつな経路に戸惑う。

乖離した思考とは、何か。

それは、(多分)他者への思いやりであり、優しさであり、
裏返せば、厳しさであり、長い始まりの覚悟だ。

自分の制御する信号の中に入り込んでくるその乖離した思考。
それを処理しなければならないのか、そうではないのかさえ、わからなかった。
2曲10分という時間は、それを考えるに充分だったけれども、
出力するには、短すぎた。

何だ。結局、書くか、読むか、死ぬしかないじゃないか。
満身創痍の体で、あの拳銃を握ってみた。
形而上で切った爪のおかげで、叩くキーボードからは美しい音がしている。

稽古場からの帰り道は、たった2分。
「お疲れ様」と劇団員と別れてから、2分後には、自宅にいる。
その帰宅途上の2分にこそ考える。
それは、さっきまで行われていた劇団再生の稽古のことであったり、
それは、長い稽古の先の約束された日の公演のことであったり、
それは、公演が行われるそこはまさに劇団再生の刑場であることであったり、
それは、劇団再生の演劇に執行猶予が常につかないことであったり、
それは、ぼくの脚本に情状酌量の余地がないことであったり、

2分間、考える。

演劇って何だよ。芝居って何だよ。
なぜここにいるんだ。どれだけここにいるんだ。
たどり着く場所はどこだよ。教えてくれ、いや、言うな。
創るって何だよ。書くってなんなんだ。
言うな!知ってるんだから!

いろんなことの2分間。

なんだ、簡単なことじゃん。
この美しいキーボードの音を聴きながら、今日の答えを知った。
簡単なことだった。
にこっとしてみた。
にこってしてみたら、気持ちがにこっとした。

『太陽がいっぱい』を観よう。
この映画は、目を演出しつくした映画だ。

「今日もまんざらじゃなかった
もう金が残ってないのと
やけに風が冷たいのと
まだお前を忘れられないことを除けば」

シオンが流れる。

『太陽がいっぱい』を観よう。
観ながら楽しい思考実験。
今日の稽古場で見えたあの座標軸を楽しんでみよう。
完全な複素平面だったじゃないか。
自分で書いていて、ここまで稽古をしてきて、それに思い至らなかったのは、
やっぱり、作品自体にのまれていたのかも。
しかし、

目の前に現れた複素平面を言葉にすることの困難。
2曲10分では無理だ、帰ってからにしようと思った困難。

『虚数の情緒ですよ!』

言葉にすれば、その一言か。
このキーボードの音を聴いていたくて、書き終わらない今日の記事。
そう、虚数の情緒。それがあの複素平面上に展開されなければならない。
回転するi,j,kとその遠心力。

またシオンだ。

「からかうなよ
1988年9月
俺はたかだか28だが
生きてたのは
何時間だい?一時間?十時間?一万時間?
サンプルにもなりゃしねぇ」

しかし、破綻した記事だ。
一体何を書きたいんだ。
うーん、書きたいんじゃない。この音を聴いていたいんだ。
書かずに適当にキーボードを叩くのとは全然音が違う。何でだろう。
書き終えたら、『太陽がいっぱい』を観よう。

そして、明日があったら、ピアノを弾こう。