時間を持っているのは誰だろう?

2008年12月24日 23:28:02

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こないだ、通りすがりの店でふくろうの時計を買った。
手巻きの時計。目覚まし時計。ふくろうの目がきょろきょろする。
カチカチとうるさく刻む秒針。

そういえば、昔は、時計が大好きだった。
腕時計をいくつもいくつも集めた。100本近く持ってた。
ロレックスが好きだった。オメガも好きだった。
インター、オーデマ、セイコー、GP、アラン・・・
スウォッチやフォッシルも集めた。Gの限定も集めた。

当時は、インターネットというツールがなくて、歩きまわった。
東京中のショップに足を運んだ。

専用のケースをいくつも用意して、夜毎時計を眺めていた。
腕時計が好きだった。
今日、辻慎之介君とロレックスの新しいラインの話をして、それを思い出した。
今、腕時計をすることは、ない。

20代のあの頃、ぼくは、ぼくだけの時間が欲しかった。
今も、それは変わらない。
時間がどこからきて、どこに行くのか、知りたい。
時間が動くというその燃料を知りたい。まさか原子力ではないだろう。
時間の重さを、時間の速度を知りたい。

ぼくだけの時間が欲しかった。
今でも、そう思う。

100本もあった時計は、ある日、全部処分した。
憑物が落ちたように、ある日。
突然、何もかもを手放したくなった。所有することに本来の意味を知った。
所有という本来の姿を、唐突に見た。
いくら腕時計につぎ込んだんだろう。
限定のイルクジとか、プレミアがついてとんでもない金額で買ったりした。

ある日、全てを処分した。店に売ったものも多い。
半数以上は、友達にあげた。
一本だけを残した。それは、今も、ある。

ぼくだけの時間が欲しかった。

こないだ、ふくろうの時計を買った。
買ってきて、ぜんまいを巻いた。かりかりと安っぽい音をたててぜんまい。
ふくろうの目がきょろきょろ動く。

ぼくだけの時間。

『ぼくにとっての日本は、一枚の日の丸の旗であった。
風にひるがえる日の丸の旗を仰ぎながらぼくは思ったものだ。

なぜ、国家には旗がありながら、
ぼく自身には旗がないのだろうか、と。

国家には「君が代」がありながら、
ぼく自身には主題歌がないのだろうか、と。』

寺山修司は、そう書いた。

なぜ世界には時間がありながら、ぼく自身にはぼくの時計がないのだろうか、と
問うてみる。
なぜ芸術には時間がありながら、ぼく自身には質量がないのだろうか、と
問うてみる。

その答えが欲しかった。自分の時間が、自分の時計が、その時計が指し示す質量が欲しかった。

ふくろうの手巻き目覚ましは、かちかち動く。
一日に、50分以上時間が狂う。
日差50分・・・

時間が狂う。
けれども、それは、何か別の時間と比べているからだけであって、
このふくろう時計を真とすれば、世界の時間が一日50分ずれていく。
これがぼくの時間かもしれない。

この、世界の時間との差こそが、ぼくの時間かもしれない。
そんな仮定をたてて、狂うがままのふくろう時計を見る。

またいつか、腕時計をしようと思う日があるかもしれない。