劇団再生が机の周りに溢れる

2009年1月26日 20:37:56

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脚本ばかり書いている毎日。
昨年もそんな印象だ。書いてばかりいた。
もちろんそれ以上の日数、稽古場に足を運んでいたのだけれども、やっぱり

書いてばかりいた。

そして、書いてばかりいる。

机の周りに積み上げられていく資料。
崩されていく資料。
コクヨの原稿用紙にパイロットの万年筆。
一週間、脚本を書き、週末にあべあゆみに渡す。
数時間後に入力されたデータとなって戻ってくる。
それに手を入れる。校正しながら、続きを書き始める。
何度も何度も読み直す。読み直してばかりいる。
2時間かけて読み直し、たった一文字を直す。
また、2時間かけて読み直し疲れ果てて、続きを書く体力を保持できなかったりする。

書いてばかりいる。
ほとんどの夜を書いている。

前回の脚本は、逸脱した。
ルールを外れた。一切の他者を排除した。自分の決定だけを信じた。
その方法は、「戯曲法」では許されないことだ。
それはもう、「脚本」ではないと言われる。
そりゃそうだ。演劇のテキストとしてある「脚本」において、他者という概念を排除したら、

そこには何もなくなるではないか。

それでも、そうとしか書けなかった。
もちろん不安は、あった。けれどもそれ以上に何かがあった。
市川未来が言った。
「高木さんの本は、緻密で破綻してなかったのに」
「今回は少し破綻したね」

正しい読み方だ。破綻。そうだ。正しい。
そして、次の脚本を書いている。途中まで仕上げたものを市川未来とさとうまりこに送った。
市川未来は、「ますます破綻したね」と言うか。

正しい。

市川未来を甘く見てるとイタイ目にあうよ! と言う。同時に、
市川未来を安心してるとイタイ目にあうよ! と・・・わけがわからん・・・
市川未来とゆーこちゃんの三人で突っ走ったあの一年。
毎週日曜日の午前中を潰して制作会議に明け暮れた。
膨大な山積する問題点。未処理事項。未決定事項。
全ての私事を後回しにして突っ走った。
週末の休日を潰し続けた市川未来とゆーこちゃん。

(誰に何を言われても自分が書きたいものだけを書こう)
(やりたいものだけを創ろう)
(筋を通せ。義理を欠くな)

そう思っていた。今も。

劇団再生の理念はそうなんだ。
『上演を拒む脚本と、上演を熱望する演出、
そして、言葉の世界を言葉を語ることによって破ろうとする俳優』
『脚本をはさんだ三つ巴の闘い』
『火花を散らす』
『観客の目に色とりどりの鮮やかな色彩』

あの頃、市川未来とゆーこちゃんは、何を思っていたのか。

ぼくは、告白を続ける。
嫌悪する言葉。
(言葉なんか大嫌いだ)と証明できるまで、告白を続ける。

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書く、ということに、一定の方法があるはずがない。
「戯曲教室」というものがある。書くことを教えられるはずがないじゃないか、と鼻で笑う。
でもその教室卒業生がいくつも戯曲賞をとっていく。ふむ・・・なるほど・・・
正しい。いいな、と思う。でも、できない。

教えられたことなんかない。
一文字一文字恥をかいてきた。恥ずかしくて小さな穴に逃げ込みまた翌日のこのこと出てきて、
作品を発表するたびに恥をかいた。安心できそうな穴を探して逃げ込みまたのこのこ這い出て、
恥をかきながら信じた。恥から逃れる穴がない、とようやく苦笑。
絶対にお前の真似はしない。そして、絶対に自分の真似もしない。

万年筆を置き、目の前の資料を叩き崩す。

前回と同じ手法、書き続けてきたエクリチュール。
それを続ければ楽だ。楽に書ける。当たり前だ。でもそうできない。なんで?とも思う。
いいじゃん、そうしなよ。とも思う。でもできない。何で?うーん。

過去の安定よりも、未来の五里霧中。

万年筆一本で苦しむだけ苦しむことができる。そして自己を確認する。
口内炎と同じだ。ドMめ、と声が聞こえる。

新しいことをしたいわけではない。
ただ、目の前の「こいつ」を書きたいだけだ。
1000kmの向うからメールがピンポーンと、届いた。
劇作家で演出家の伊藤さん。
本文を開き、読む。
泣いた。

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叩き崩した資料をまた積み上げる。
置いた万年筆を取り上げる。
ほとんどの夜を書いている。
日曜日を潰し続けた三人。
彼女たちの目に今、何がうつっているか。
叩き崩した資料を積み上げる。万年筆に月夜を充填する。
上演を拒む言葉。上演を熱望する演出。
困ったもんだ。その(或いは)矛盾がこの体内に妊娠する。
ぼくは、演劇を孕んだ。演劇を妊娠した。