早見慶子さんのトークライブ『「希望は戦争」か?「希望は愛」か?』

2009年2月20日 21:22:48

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(写真は左から、秋山喜一さん、早見慶子さん、赤木智弘さん、鈴木邦男さん、司会の金垣広行さん)

先日、阿佐ヶ谷ロフトで行われたトークライブに行ってきた。
劇団員の市川未来とゆーこちゃんと3人で客席に着いた。
いつもお世話になっている阿佐ヶ谷ロフト。
いつも舞台を自由に使わせていただいている。
こうして客席から舞台を眺めるのは、久しぶりだ。

「希望は戦争」か?「希望は愛」か? と題されたトークライブ。
早見さんから案内を頂いたときから楽しみにしていた。
以前、「希望は戦争」と強烈な問題提起をした赤木智弘さんも出演する。
客席中央に劇団員3人陣取り、パクパクいろんなものを食べながら、拝聴。

【第一部】 世代間戦争は必要か?
【第二部】男性の主夫がなぜ少ないのか?

プログラムは、2部構成になっている。
論点ははっきりしている。

定刻どおりトークライブは始まった。
問題提起がされ、各人それぞれの活動からの視点や、現在の状況からの小状況が語られていく。
秋山氏、早見さんという活動を経てきた始点と、
政治の季節を、あの非日常を終えた日本のまさに現代という「日常」の渦中で
問題を敏感に感じる赤木氏の視点。
その二つの視点は、

もちろん、あきらかに違う。
驚くほどに違う。

聴きながら、考え続けていた。
こんな状況はこれまでいくらでもあったはずだ。
江戸時代にも、幕末にも、第一次ロシア革命前夜にも、その後のロシアにも、
米南北戦争への道程にも、もちろんイスラム教国の対立の歴史にも、
少し前の中韓にも、日本のあの政治の季節にも。

ほんのわずかな世代間の肌感触の違いか。

中江兆民が当時絶望しながらも国民の目線で為政者を描き続けたあの筆が蘇る。

国民の目と国家の目。
完全な定点観測を歴史的にする以外、完璧な大状況を説明することはできない。
それはもちろんそうだ。
眼前で行われるトークライブは、その大状況を描くことが出来ないが故の
苦悩と問題を提示し続けていく。
こんな感覚は、何かに似ていないか、と思った。
言葉にならないあがき、言葉にならない焦燥、言葉にならない怒り。
みんなが感じているその言葉にならない何物かを、

壇上の彼らがなんとか言葉にしようと熱を上げる。

ぼくは、考え続けていた。
キャベツを食べたり、ポテトフライを食べながら、考えていた。
論点は、システムとプログラマではないかと感じていた。

例えば、この日のトークライブでの基点の中で、
マルクスを主義と捉えるか、思想と捉えるか、或いはシステムと捉えるか、
その違いでトークの道は変わってくる。

例えば、現代日本を
定点としての「現代」と捉えるか、
歴史の中の「過渡」と捉えるか、或いは、まさに過ぎようとする「過去」と捉えるか、
それによっても、変わってくる。

問題は、
システムとプログラマの憂鬱、か。
二律背反するその憂鬱なんだ。

早見さんの主張、赤木氏の主張、その真意を見抜こうとする。
考え続けていた。

一対一で、早見さんや赤木氏と語り合うことができれば、
何がしかのぼくなりの判断や答えを出すことはできそうだと、感じた。
それは、あくまでもぼくなりので、

ぼくなりの、というのは、やっぱり演劇を創るというところに回転していく。

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【第一部】 世代間戦争は必要か?
【第二部】男性の主夫がなぜ少ないのか?

この日、取り上げられた二つのテーマは、考えなくてはならない問題だ。
あえて言うなら、ことさらに今だから考えなくてはならない問題だ。
正確に言うなら、今、言葉にしておく必要がある問題だ。
阿佐ヶ谷ロフトの客席で脳裏に浮かんだ一言。
(本当に絶望しているだろうか)

希望、と言うことは出来る。
けれども、完全に

絶望、と、今の日本で口にすることができるだろうか。

そんなことを考えていた。
キェルケゴールを持ち出すまでもなく、希望と言う言葉は重い。
そして、また絶望も。
希望、という主体は、国民なのか、国家なのか。
絶望、という主体は、国民なのか、国家なのか。
プラトンが夢見た政治形態が甘く頭をよぎる。
マルクスもそうだ。
マルクスは人間を「自由意志の主体」であることを否定しているわけではない。
ただ、それ以前に人間を社会にイン・ザインする動物と見ているだけだ。

トークライブを聴きながら、
ユートピアを夢見る。

ユートピアを夢見た。