これぞ脚本

2009年7月13日 22:40:48

写真

ころすけ君(市川未来)が以前ぼくに言った。
「高木さんの脚本は、緻密で破綻してなかったのに」

そして、続けた。あれはどの作品の時だったか。
「今回は少し破綻したね」

そりゃそうだ。正しい。と、そのとき思った。ころ君の読み方は正しい。
そう、破綻したんだ。なぜなら、脚本という演劇のテキストとしての文芸において、
他者を排除していたからだ。前2作、意識的にそうしてきた。
ぼく以外の他者の排除に努めた。破綻もするはずだ。

けれども、それでいいと思った。それで良かった。言葉がぶれることを一番恐れた。
あちこちの舞台を観たりする。
言葉が一貫しぶれずにラストシーンを迎える作品は驚くほどに少ない。
そんな作品は、ほぼ、無い。
オープニングで創り手の顔がきちんと見えていたものが、展開した途端に、言葉が、

観客の顔色を覗い始めたり、
演じる俳優に色目を使ったり、
稽古期間と言う「時間」に擦り寄ったり、

気持ち悪いことこの上ない。言葉がぶれずに一貫したのは、今年見た中では一作品だけだ。
そして、ぼくは今回の脚本で、他者以外に、ぼく自身も排除した。
ぼく自身が顔を失うことで、言葉の輪郭をはっきりさせてみようと思った。

正しい方法なんか知るか。方法と、口にした途端、なにもかもが嘘になる。
芸術においてそれは、間違いのない事実だ。
徹底的な個人の所業に方法などあるはずが無い。方法、と一般化された時点で、
創り手の命の炎は消え、運動が停止する。当たり前の話だ。

劇団再生。その稽古場。永久運動機関の統一場。
ユークリッドを鼻で笑い、複素平面を手のひらで転がし、全く新しい拡張場。
この稽古場では無限さえその概念が拡張され、閉ざされた無限を創出される。

劇団再生、その稽古場。ここから全てが創りだされ、方法無き普遍。
命の燃焼だけが問題とされる。生きているか、死んでいるか、その二極しかない。
本当しかない稽古場。

そういえば、嘘ばかりの稽古場をたくさん見てきた。
馴れ合いと迎合と妥協と嘘と、だから反対概念としての本当がピカリとする稽古場。
その反対概念としての本当が光ることが創造だ、ひらめきだ、演出だ、と
勘違いしている稽古場。
本当が、スタンダードにもアベレージにもならず、
嘘まみれ故に本当が見えただけの稽古場。
そこから送りだされるのは、見るに値しない、何も無い、空虚な、「時間」、浪費。
さあ、ここまで書いた。
そんなに言うなら、本当に劇団再生の稽古場はそんなに本当なのか。

と、問われれば、鼻で笑う。
その問いが発せられた瞬間に本当は、嘘になるんですよ。
その問いが発せられた瞬間に問うた本人は、ただの、

しろうと。

どうだ、このロジック。

さあ、ラストシーン。あと10枚といったところか。
脚本の中に、登場人物も、ぼく以外の他者も、ぼくさえもいない、
これぞ脚本。