稽古場、本読み、一本の映画、一人、そして、本を開く

2009年7月18日 23:07:56

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脚本が完成し、全員に配布し、あらためて全員で脚本を読んだ。
ぼくが望んで書き始め、望んだように書きあがった脚本。
読みながら、嬉しくて、読みながら、楽しく。

脚本という形態が、
演劇におけるただのテキストに甘んじていた時代は終わった。
20年前からそう思っていた。
脚本は、文学だ。脚本は自立する芸術だ。

脚本と舞台という蜜月を破壊せよ!
脚本と上演という関係を破壊せよ!

その脚本→演劇という関係が全くないところに、
俳優の命が芽生えるんだ。
そう信じていた。信じてきた。信じてようやくここまでやってきた。
信じて、こんなところに来てしまった。
それが、正しいか、誤っているか、そんなことは知らない。関係ない。
脚本→演劇という図式は、

ここには、もう、ない。
脚本があり、テキストとして機能し、上演される。
その図式が演劇を殺した。その図式が、俳優を殺した。
商業演劇を蝕み、それは小劇場界に触手を伸ばし、小劇場を殺した。
俳優を殺し、劇作家を殺し、演出家を殺し、観客をも殺した。

劇団再生が創り上げつつあるこの作品は、こんなに楽しく成就しつつある。
さあ、次だ。脚本⇔上演。脚本と同時に演劇が「或る」図式。
創造するだけでわくわくする。
その具体的な方法は思いつきもしないけれども。
そして、次だ。上演→脚本。これもまた、美しい方程式だ。

上演された後に書かれる脚本。我知らず笑む。
脚本を自立し、俳優は自立し、演劇は自立し、演出家も、照明家も、作曲家も、選曲家も、衣装も、メイクも、髪の毛も、
何もかも自立し、逆立ち、

これまで何十年も培ってきた演劇界の相互安全保障システムは、
ここに、

破壊される。

脚本は、演出家に寄りかかることもなく、
演出家が、俳優に寄りかかることもなく、
俳優が、効果に寄りかかることもなく、

ただ、自立する。それぞれが、自らの命を投げ出し、命を死守し、
命をただ、

ただ、燃焼する。
みなが、一人で立つ。一人で立ち、その命を燃やし尽くす。
そこにしか、演劇における表現は、ない。
そう信じてきた。

そんな脚本が書きあがり、みんなでその本を読んだ。
楽しくて、嬉しくて、わくわくする。
わくわくしながら帰宅し、映画を観る。そして、

キルケゴールをひらいた。