「なぜ言葉なのか」ここ数年の自身への問いを真夜中問う

2009年8月13日 23:02:42

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ぼくのメイン出力が言葉に設定されて、もう何十年も過ぎた。
言葉を本当に信頼し、言葉を畏れたのは、小学生の頃だ。
中学に上がってから、言葉への不信が芽生え、
高校に進んでからは、言葉への反抗の日々。
そして、上京して、言葉に屈服し、言葉に服従し、言葉に屈従し、
未だにぼくの出力は、言葉だ。

昨日、友人の、いや、同志の、違うな、知り合いの、違う違う、
んー、一番近いのは、先輩の、かな、

あるカテゴリの先輩と赤外線でアドレスを交換した。
赤外線は、間違いも迷いも躊躇もなく、情報を送り、伝えた。
ぼくの出力先も赤外線に設定できないものか。
どこかの設定ファイルをちょこちょこっと書き換えさえすれば、
それが可能なパソコンは、いいな、と思う。

ぼくの出力先を指定している設定ファイルは、多分、脳みそのなかだろう。

と、こんなことを考えている。
今日も、それを考えていた。
言葉の不自由さに自身イラつきながら。

ぼくは、あなたのぬくもりを感じ、それを知ることができる。
ぼくは、あなたの手に流れる血を自身の鼓動と一致させることができる。
ぼくは、あなたの目の光で物言わぬ救いを知ることができる。

できるのに、できるのに、できるのに、と、
真夜中か。

ぼくは、百万人のあなたに語る言葉はもっていない。
ぼくの言葉は、たった一人にのために書くんだ。

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