きみは悲しみの青い空を一人で飛べるか

2009年12月13日 19:33:20

写真

脚本を書いている。
こつこつと書いている。
原稿用紙を埋めていくのは、今ありありと見えている壮大な画だ。

こんなにはっきりと形而上を目撃したことはなかった。
ここまでクリアに形而上を見てしまったら、
この先、このリアルな形而上がぼくの認識のベースになるのだろうか。
と、思いながら脚本を書いている。

一文字ずつゴールに向かって。
一行ずつゴールに向かって。
脚本を書いている。

芸術が人間以上になることは、絶対にない。
芸術が人間以外になることは、絶対にない。

人間以上でも人間以下でも、人間以外でも、人間以内でもなく、
ただ人間の演劇で、世界は、変わる。
たった一言で、たった一行で、世界は変わるんだ。
森田童子がくるくる。日本思想大系に大きなジャケットが立てかけてある。

「きみは悲しみの青い空を一人で飛べるか」

森田童子が語りかけてくる。
脚本を書いている。世界は変わる。たった一言で、たった一行で。
壮大な画に向き合って、言葉を、書いている。

見えている画は、アナログ。
書いている言葉は、デジタル。
舞台に上がるものは、アナログ。

くるくる回るレコードは、アナログで、ぴかぴか光るCDは、デジタルで、
ぼくが上京した頃、レコードからCDへと変わっていった。
今、こうしてレコードを聞いている。森田童子を聞いている。
森田童子の曲は、パソコンの中にたくさん入っている。
アナログで聞くことに強いこだわりがあるわけでもない。
趣味人の語るように、アナログの音の方がいいと思える音響設備があるわけでもない。

森田童子がくるくるまわりながら、アナログであるべき理由を語りかけてくる。
今、見えている画はアナログだ。
壮大なそれを原稿用紙に書き出している言葉は、デジタルだ。記号だ。
そして、この脚本をもとに来年3月上演される舞台は、アナログだ。

一枚の画、そのまま舞台に上がるわけではなく、
途中で一度、言葉というデジタル記号に変換される。
それが、演劇だ、と、言い切ることは、避ける。

イメージの変換。

小説や、脚本が、芸術と呼ばれなかった時代が長かったのは、その記法がデジタル故だ。
言葉がデジタル性を保有し続けるが故だ。

画は、まさにアナログを突っ走る。
言葉という記号に変換されるものは、歴史上確かに芸術から一歩下がってきた。
目に見えている画。それはデジタルでは表現できない。
それを、言葉というデジタル記号に変換している。
毎日毎日、変換している。

「きみは悲しみの青い空を一人で飛べるか」

この変換に使う思考こそが、世界を変える。
ぼくたちの演劇は、アナログとデジタルの世界を往復しながら、一つの世界をつくる。
その往復するということこそが、世界を変えるんだ。
それは、意識せねばならない。

森田童子がくるくる回る。

「悲しい時は ほほよせて
淋しい時は 胸を合わせて
ただふたりは 夜のふちへ
ふるえて旅立つのでした
そんな淋しい ふたりの始まりでした」

森田童子が語りかけてくる。

ぼくに空を語りかけてくる。
そしてぼくは、空を、あなたに、語るだろう。
森田童子が青い空を歌う。
ぼくは、ぼくが呼び寄せるぼくの言葉にぼくの空を一首歌う。

脚本を書いている。
こつこつと毎日少しずつ原稿用紙に書いている。
黒い万年筆。インクは月夜。
言葉を引き寄せ抱き寄せ呼べば、不安が増幅していく。
ぼくだけの言葉をまさにここに手にしているはずなのに、不安が増幅していく。
自らの言葉に恐怖し、
でも、言葉を求め続ける。

ぼくが、ぼくの言葉に歌う一首は、遺書だ。