夜しか泳げない魚、か

2010年5月7日 18:32:14

寒い寒いと暗闇をくるまっていた、と思っていたら、なんだ五月じゃないか。
明日、見沢さんの墓参りに行くか、そうか、五月か。

二十才 僕は五月に誕生した
僕は木の葉をふみ若い樹木たちをよんでみる
いまこそ時 僕は僕の季節の入口で
はにかみながら鳥たちへ
手をあげてみる
二十才 僕は五月に誕生した

寺山さんの「五月の詩」
そういえば、毎年連休が明けると寺山さんを開く。
大好きな作品集『われに五月を』
一粒の向日葵の種蒔きしのみに 荒野をわれの処女地と呼びき

荒野をわれの処女地と呼ぶ。
なるほど、そりゃそうだ。なんだかんだと言ったところで、夜しか泳げない。
原稿用紙の升目を埋めるのもインクという夜だ。
そのインクの微かな鉱物の匂いも夜という香りだ。
万年筆を握りしめるのも右手という夜だ。
ページをめくり泣きながら読むのも夜という本だ。
夜という手紙を書き、宛て先のない夜に投函する。
一通のメールを送信する怖れを抱くのもネットワークの夜だ。
不意に口をついて発語される夜というぼくだけの言葉。
その言葉が夜を泳ぐぼく自身を包み込む。

夜しか泳げない魚は影をつれて歩かない
だけど
光だけが光じゃないことだけは太陽より知ってる

SIONを聴こう。そして、明日、見沢さんの墓参りに行こう。



ランダムに流れ続けるSIONが夜を語る。
夜と語る。夜に居ながら。

さよなら、演劇。
書くまでもない。ぼくにとって、本当の敵は、いつも演劇だった。
正確に書こうとするならば、「演劇」という言葉だ。
そして、「演劇」という言葉を与えられた、何もかもだ。
なぜ、「演劇」という言葉があるのか。
一体、誰が、あれやこれやのあれこれを「演劇」と名付けたのか。
ぼくは、「演劇」と名付けたその人を、憎む。
それは、「芝居」だろうが、「舞台」だろうが同じことだ。
なぜ、名付けえぬものを無理矢理に名付けた。

演劇、という言葉の発見、或いは発明、或いは名付け、で、演劇は、死んだ。
名付け得ないことこそが、それらのそもそもであり、本旨であり、価値だったはずじゃないか。
素人め、ぼくが、憎む以上に(演劇)自身が、絶望している。
それがわからないのか、素人め。さよなら、演劇。悔しさと寂しさと優しさと。
さよなら、演劇。

「演劇」と名付けられたから、あがくようにいろんな「演劇」が呼吸困難。
泳ぎながら微かな一瞬に水面に口を出し呼吸する。苦しい。息をさせてくれ、と。
狂え! と聞こえる方向に、泳ぎ続ける。
いろんな演劇があっぷあっぷと最後のあがき。さよなら、演劇。
狂え! 演劇破滅派。

狂わねば、人は斬れない。
狂わねば、言葉は斬れない。
狂わねば、お前を斬れない。
狂え! 演劇破滅派。

優しさは、その刃を鈍らせはしない。
寂しさは、その刃を曇らせはしない。
強さが、その刃を研ぎすますわけではない。狂え、狂わねば、人は斬れない。

演劇は、一言を残して死んだ。消えた。去った。
ならば! と、この夜に泳ぐ。尾びれを強くキックし、胸びらでバランスをとる。
真っ暗だ。なんて暗さだ。一寸先どころか、目の前の餌さえ見えない。
体中に圧力を感じる。泳いでいる。目の下のほほを冷たい流れが流れ当たる。
時々何かがぶつかる。それは、漂う藻かもしれない。好物の餌かもしれない。
巨大な敵かもしれない。流木かもしれない。演劇かもしれない。真っ暗だ。
いいだろう、と尾びれでキック! キック!

さよなら、演劇。

真っ暗か。夜だもんな。そりゃそうだ。こんな夜をいつも泳いでるんだ。
上も下もない。前も後ろもない。右も左もない。
ただ、泳いでいる。体への圧力が強くなっている。もぐっているのか。
深く深く、どこまでも底に行こうとしているのか。
なるほど、感じる温度もなかなかの冷たさだ。このままどこまでも潜れば、

その圧力で潰れてしまうかもしれない。望むところだ。キック、キック。
さよなら、演劇。
ぼくの刃は、今も研ぎすまされている。
生温い夜に、その凶刃を振り回す。素人どもを斬り倒す。
我が物顔にのさばり闊歩する素人を、斬る。邪魔なお前らを斬り倒しながら、キック、キック。

狂え!

連れてってやる。声が聞こえるか。言葉が聞こえるか。
狂え! 連れてってやる。