この世界の肖像画は、描く意味があるだろうか

2011年1月3日 22:50:08

こうして、「世界」がありありと見えている。

「こうして」、だ。

目の前にありありと、クリアに、鮮やかに見えている。
これまでも見えていた。
見えていたものを、ただ正確になぞってきたら、舞台ができた。
脚本というものが、書かれた。
その言葉の連なりが作品という結果を残してきた。

戸惑う。

見えているものを見えているままに描くことのどこに
創作者の意味があるのか。

見えている世界を伝えたいと望んできた。
見えているものをぼく以外の誰かに見せたいと望んできた。
その見せるための作業が、
創作者の意味において無価値であるとしても、その道を選んできた。

見えている世界をそのまま描いてきただけだ。
なぞってきただけだ。

この世界の真の姿を描きたい、と思い続けて、
そして、その真の姿は、誰にでも見えているはずだと思っていた。

世界は、形容詞や名詞でできてはいない。
世界は、接続詞や副詞で接続されているわけではない。
世界は、動詞で動いているわけではない。

だれにでも真の姿が見えていると思っていた。
見えているけど、それを伝えることの情熱に欠けているだけだと。
芸術家や創作者、音楽でも舞台でもいい、画家でもカメラマンでもいい、
お茶でも花でも舞でもなんでもいい。

そんな芸事・創作に携わる者には、真の世界が常にあり、
それに対峙することが仕事だと思ってきた。
でも、どうやら違うようだ。

たくさんの人と話してきた。
話せば話すほど、関われば関わるほど、違っていた。
彼らに見えているのは、現実の世界だけだ。
彼らに見えているのは、目の前の具体だけだ。
彼らの世界を動かすのは、

飾り付けられた動詞であり、世界を形作るのは、
使い古された形容詞であり、世界をリンクするのは、
無意味な接続詞だ。

でもまあ、それで世界は確かに構成され、確かに不自由なく動く。
それで満足してればいいものを・・・
余計な色目を使うな。選ばれてもいないのに、芸事を気取るな。
呼ばれてもいないのに現場にくるんじゃない。

ただ、世界がある。
容赦なく世界がある。
結局、口を噤むしかないのか。
偽の世界でもう、

口をききたくもない。言葉をききたくもない。

さあ、どうするか。
ありありと見える「世界」が、ある。
お前を描くことなんか、簡単だ。だってそんなにはっきり見えてるんだから。

だから、退屈なんだ、って話。

望んでるのは、見えないもの。
そこに「世界」を超えた真実がある気がしてるんだ。
その見えないものを見るためなら、なにもかもを犠牲にする。当たり前だ。

こんな退屈は、もうまっぴらなんだ。

見えすぎる。
見えすぎる。
見えすぎて、退屈。