名探偵コナンと谷崎の「刺青」

2011年3月28日 20:32:14



名探偵コナンと谷崎の「刺青」とタイトルを書いたけれども、
その両者に共通点がある、という話ではないし、新たな解釈を与えようという話でもない。

ただ、好きだな、と思う、というだけだ。

名探偵コナン。劇場公開されたものは、DVDで大体観た。手元にDVDが、ある。
今も、寝る前なんかにぼんやり観たりする。何度も何度も観る。何度観ても面白い。
登場人物たちが好きだ。みんな好きだ。かっこいいし、かわいい。あの絵が好きなんだな。

そして、谷崎潤一郎 の「刺青」。もちろん小説だ。実質的な彼の処女作だ。
文庫に入っている。何度も読んだ。短い作品だ。

この短い処女作に谷崎の全てがある。そう思う。

『其れはまだ人々が「愚(おろか)」と云う貴い徳を持って居て、
世の中が今のように激しく軋み合わない時分であった。』

出だしだ。この雰囲気は谷崎ならではないか。
なにかが始まる。それも、異形ななにかが、と思わせる。後の谷崎文学にもその気配が濃厚だ。
そして、谷崎の真骨頂的な部分が以下だ。

『すべて美しい者は強者であり、醜い者は弱者であった。』

『「顔を見るのは始めてだが、お前の足にはおぼえがある。」』

まさに、谷崎だな、と読むたびに思う。
そういえば、これを原作に映画化もされたな、と思い、DVDを探した。
5作品ほど、あった。3作品、観た。

んー、困ったもんだ。

谷崎がいないじゃないか。
三本のうち一本は、確かに谷崎らしさを感じたが、現代の作品は、だめだ。困る。
谷崎のあの「刺青」をどう読めば、こんな映像ができるのか。
谷崎は、女の裸にエロスなんか感じてないんだ。若い女の裸を出せばいいってもんじゃない。
監禁というモチーフ、密室というモチーフ、そして刺青というモチーフ。
谷崎は、確かにそれらのモチーフを順に組み合わせて小説を書いた。
だが、谷崎はそれらのモチーフをその言葉の意では、決して書いてはいない。

谷崎がそれらのモチーフを描きながら「書いた」のは、寂しさだ。
美しいという強者の寂しさ、醜いことの弱者性と一点執着せざるを得ない寂しさ。

まあいいけどさ、観ていて、痛くないんだな。それが、決定的だ。
刺青の話なのに、痛くないんだ。困る。いや、困りはしないか。

なんか、そんなことを思いながら、いつか映画を撮りたいな、と思った。
そして、今日も名探偵コナンを観ている。