街が、生活が、毎日が、人々が、全部、言葉で見える。

2011年3月30日 00:19:44


わたしは非合法生活にも、孤独にもなれてしまった。
わたしは未来を知ろうとは思わない。
過去のことは忘れるようにしている。
わたしには故国も、名も、家族もない。
わたしはひとりでつぶやく。

彼のことを考えるとき、わたしには憎悪も敵意もない。
あわれみもまたない。
わたしは彼には無関心だ。
だが、わたしは彼の死を欲する。
わたしは彼を殺さねばならぬことを知っている。
テロと革命のために必要なのだ。
わたしは力が藁をもみつぶすことなら信じるが、言葉は信じない。
できるなら、わたしは政府高官と支配者の全員を殺すだろう。
わたしは奴隷でありたくないし、奴隷でいることも望まぬ。

ぼくはいま殺人にくわわっている、それでぼくの心はひどく悲しんでいるのだ。
だが、ぼくは殺さぬわけにはいかない。
人びとを愛しているからだ。
もし十字架が重ければ、それを自分に取るのだ。
もし罪が大きければ、それをひきうけるのだ。
神はぼくらをあわれみ、許してくださるだろう。

ぼくらはなにによって生きているのだろうか?
ただ憎悪だけで生きているのではないか。
ぼくらは人を愛するということができない。
絞め殺し、斬り殺し、焼きうちする。
ぼくらもまた絞め殺され、斬り殺され、焼きすてられるが。
これは、なに者の名においておこなわれるのだろうか。
きみ、いってくれ、頼む、いってくれ。

ロープシンの『蒼ざめた馬』だ。
もう、何十回と読んできた。枕もとに一冊、机に一冊、ソファに一冊。それが置いてある。
どの本も付箋や傍線、書き込みで汚れきっている。
それにページが破れているものまである。セロテープで補修し、もう何十年も一緒にいる。

作家のロープシン=政治家サヴィンコフ。
ぼくは、彼のその二面性についてなにか思うことは、ない。同じことだ。

サヴィンコフは戦闘団を指揮した。
その指揮下で、
内務大臣プレーヴェを暗殺した。
セルゲイ大公を暗殺した。
総督ドゥーバソフを負傷させ、ストルイピン首相別荘を爆破した。
そして、逮捕された。ジリベルベルクの計画で脱獄に成功した。
脱獄できなければ、サヴィンコフは27歳で死刑台に登っていた。
脱獄したサヴィンコフは、皇帝暗殺に突き進む。

こうして、サヴィンコフ=ロープシンを読み、思うと、友人カリヤエフの言葉を思い出す。

『テロルはなによりもまずテロリストの犠牲によって彩られる』

なるほど、演劇と同じじゃないか。いや、演劇に限らず、芸術全ては、同じじゃないか。
作家ロープシンが「蒼ざめた馬」の中で書いてきた言葉の群れ、観念の団塊全てが芸術と同じだ。

ぼくらはなにによって生きているのだろうか?
ただ憎悪だけで生きているのではないか。
ぼくらは人を愛するということができない。
絞め殺し、斬り殺し、焼きうちする。
ぼくらもまた絞め殺され、斬り殺され、焼きすてられるが。
これは、なに者の名においておこなわれるのだろうか。
きみ、いってくれ、頼む、いってくれ。

テロルの相手が人間でも芸術でも、同じだ。
ぼくは、人を愛するということができない。
芸術を絞め殺し、斬り殺し、焼きうちする。
そして
芸術に絞め殺され、斬り殺され、焼きすてられる。
これは、
なに者の名においておこなわれるのだろうか。

なんだ、同じじゃないか。

北一輝を読み返しながら、思い立って今日読んだ「蒼ざめた馬」
テロリスト・サヴィンコフ。作家ロープシン。
それらを思い、彼らの情念に思いを馳せるとき、なぜか、

北一輝とドストエフスキーがぼくの目の前に亡霊のように悪霊のように立ち現れる。
北一輝を読み返している。ドストエフスキーをひもとこうとしている。
真夜中だ。言葉が浮遊する。浮遊しながら世界に固着される。

いつからだろう。何もかもが言葉で見えるようになった。
街を歩いても、街の景色全てが言葉に見える。人々が言葉で見える。時間や毎日が言葉で見える。
最初の頃は恐怖だった。目を閉じても暗闇が言葉になる。

今は、慣れたと言えば慣れた気もする。

なるほど、言葉か。