演劇の沈黙

2011年7月2日 22:42:42

ドストエフスキーやカミュやニーチェと共に死ぬことはできるだろう

だが ぼくの棺の中に彼らの著作を入れることは ごめんだ

世界に害を加えないのが芸術家だとする定義がある

ならば芸術家の仕事はこの世界になにを加えるのだろうか

演劇には高さがある その高さで生きようとする者を劇作家は描こうとするのだ

その高さで 演劇のために死ぬほど 一行の台詞と心中するほど 演劇を肉体化する

そうして最後には論理的に演劇を正当化するのだ

感情的且つ個人的に演劇を正当化する者ばかりの現代だが・・・

演劇と良心との悲劇的な矛盾 同時に生に対する愛と死の抗議の高さの矛盾

演劇の高さに居る者にとって良心や愛との矛盾を克服することは不可能だ

愛の不可能性を正当化的に問題とされるのが現代の悲劇の一つと言える

ぼくにとって世界は敵対する論理ではなかったはずだ 同時に演劇もまた

夢想家だとの非難はその通りだ

世界に夢想家はいなくてはならない その役割を引き受けよう

もう一つの悲劇 言葉が多すぎる

考える と言うとき 正しく疑っているか 考えると疑うは同義だ 言葉は一つでいい

表現者にとって観客や読者を泣かせる 笑わせる という感情の操作は暗黙的に禁じ手ではなかったか

なぜ現代はそれを臆面もなくやってみせるのか それが時代というならば

なんて残酷な時代だ

残酷な時代か

ぼくは語りたい

聞いてくれる者はいないが 語りたい

ぼくは書きたい

読んでくれる者がいないが 書きたい

ぼくは言葉と共にありたい