朝から動き続け、夕方から浅草に出かけ、夜中に落合に落ち着き、真夜中に一人
2011年8月13日 03:03:15
ひどい肩こりだの、痛みを伴う首のこりだの、
貼りつくような背中の痛みだの、粘度の高い疲労だの、
笑ってしまうほどの目の奥の鈍痛だの、
今や仲良しの友達の続き続ける微熱の高さだの、
例えば、そんなことは「世界」には何の関係もないんだな、と
タクシーの中で考えていた。
けれども、「世界」との関係を関係しようとする場合、
前述した例えばそんな形而下の事々は、厳とした出来事であり、
個々の出来事は、密に「世界」と連絡していて、
なんじゃそりゃ?
と、出来事を関係することの思考法のあまりの回りくどさに苦笑する。
タクシーは、道を一本間違えて、運転手は平謝りしていた。
ぼくは、何も言ってないのに、しきりに謝る。
その出来事一つをとってみても、
出来事を関係することの猥雑にうんざりする。
出来事が存在するということは、果たして、本当に世界が、
存在することだろうか。
出来事の存在とは何か、ということが、まず問われるべきで、
もちろん、随分長い間、そのことを考えているのだ。
出来事が存在するということは、どういうことか。
なるほど、わかるようでわからないけれども、
わからないようで、すんなりわかる。すんなりわかるけれども、
全然わからない。
2カ月。
それが長い期間か、短い期間か、それはわからない。
相対的な感覚だとしても、それを判断する術をしらない。
2カ月。
何もしないで、埴谷雄高の「死霊」を読み込んでみたい。
そんなことを思いながら、真夜中に一人。